2017年05月11日

「昔はなし」その297 額と看板のはなし

額と看板のはなし

 若松園の話で恐縮ですが、内部にかけて
あつたのは七卿中の一人の東久世通禧が書
いたものでした。
 また横田屋甘露軒の額は長尾華陽の筆で
舟橋屋平角(すみ)は内額が貫名海屋(晩
年は上松翁)でこの人は孝明天皇の文字の
師である人でした。
 文字は霊味と書いてありましたが、この
額がしまいにはどういうものか東京の空也
堂という菓子屋にかかっていました。いま
もあるか、どうかは知りませんが、もしあ
ったとすれば珍品であり、名宝ともいえま
しょう。
 看板の話のつづきですが、花園町正琳寺
の先々代の柏木恵鮮が小島屋旅館の表看板
を書いていました。桝屋旅館のは原田圭岳
の筆、絹徳菓子店、きくや菓子店のはやは
り恵鮮とか鈴木梅巖が書いていました。
 どこの店か思い出せないが原田圭岳の書
いた看板も多かった。糸柳寿司の看板は鈴
木梅巌のものでした。
 魚町の大崎屋の看板は渡辺小華の書いた
ものでした。
 札木の貸座敷の丁字屋の内額の文字で宜
愛香楼という四文字が梁川星巖の筆でし
た。その下へ小野湖山のきわめが書かれて
いた美事なものでした。
 ところが丁字屋の弟がのんべいで、酒の
かたに、この額を秘かに他へ売ってしまい
ました。もし、これが今日にでも残ってい
たらと―思うと残念であります。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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