2016年10月31日

「昔はなし」その110 巻タバコの元祖

巻タバコの元祖

 巻タバコを十八連隊ができたころ、豊橋でも
つくるようになりました。万久さんが卒先してや
りました。
 関屋の松下栄二郎というのが軍隊にひきが
できて、軍隊納入用の巻タバコを沢山つくりま
した。それまでは他所から巻タバコが来ていて
市中の人で巻タバコなど手にする人はほとん
どなかつたようです。松下のつくる巻タバコ「ま
つした」という名がはいっているだけで、今日の
ような気のきいた名前などはつけてありません
でした。記憶がはつきりしませんが三階松の絵
の下に「下」という字が書いてあったと思います。
万久さんのは印がなかったかと思います。

  

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2016年10月30日

「昔はなし」その109 辛棒した床屋の客

辛棒した床屋の客
 
 昔の床屋ですが、床屋へ行ってみても何もな
いのです。洗面器もありません。ドンブリの大き
いのがカメの横においてあるだけなんです。は
いっていくと、そこに庭があります。縁側に腰を
おろすと「顔を湿らしていらつしやい」といいま
す。客はカメの水をドンブリヘくんで顔を湿らす
のです。するとひげをおとす扇型の板を借して
くれます。それを両手に持っているのです。
 床屋の主人公は両膝へ客の頭をはさんで、
剃つたひげは扇型の板へすりつけます。サー
ビスも何もなく床屋へ行くことは難行苦行であ
りました。今から考えると客もよく辛棒したもの
だと思います。

  

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2016年10月29日

「昔はなし」その108 柱に自分をぶつける旧藩士

柱に自分をぶつける旧藩士

 吉田藩が廃されてからも剣術はなかなか
さかんで神宮寺の境内が以前は広かったの
で、ここで度々剣術大会が催されました。当
時、近藤鶴五郎という剣術使がありまして、
神宮寺の剣術大会で、しまいには真ケン勝負
となりました。当局も大目に見て許していたわ
けです。見ている方がはらはらしました。この
真けん勝負には審判というものがないのです。
審判は不要なんです。というのは見物にも勝
負は判るし、立向っている二人にも「俺が負け
た」ということは、きわどい瞬間にわかるので
す。ですから危ない瞬間にパッとお互いに手
をひくので傷がつくという事故はほとんどあり
ませんでした。
 廃藩のあと……弓術も盛んでした。奥村閑水
などという名人がいました。石原某は弓のつる
を作るのが専門でしたが、これはまた弓にも非
凡な技を持っていました。六枚折びょうぶでか
こつて、一方へ大きなカワラケをおいて、その
中で大弓をひくのです。矢はカワラケヘ当るだ
けで、びようぶにはかすりきずもつかないとい
う妙技なんです。
 家老職をやっていた松井が郡長になって
から、宴会でもあると、必ず石原をひっぱり出
して客にその妙技を見せるのです。それといっ
しよに、松井は両肌をぬいで三尺ほどへだった
ところから自分の身体を、むちやに柱へぶつつ
けるのです。宴会の客はアッと嘆を発している
なかで松井はこれを五回やるんです。よく身体
が折れないものだと思いました。維新の頃は
宴会の宴興に変ったことをやる男がいたものです。



天宮神社ホームページより奥村閑水  

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2016年10月28日

「昔はなし」その107 記録破りの板垣歓迎

記録破りの板垣歓迎

 自由民権の旗印も派手に板垣退助が各地に
遊説の旅をしてついに豊橋へやってきました。
 近藤寿市郎など真先に立ちあがった人でし
た。だいたい渥美の赤羽根、田原あたりからの
出身者、つづいて牛久保辺の人がとくに熱心
でした。
 板垣が豊橋へ着くころは、ちょうど夜になった
ので迎えの人々はほうづき提灯を手に手にし
て「万歳、万歳」と叫んで板垣を迎えたものでし
た。板垣は人力車の上からにっこりと笑って、
これに応えていましたが、お祭騒ぎ以上の盛
大さでした。
 行列といえば日英同盟の結ばれたときには
祝賀のカンテラ行列というのがありました。イギ
リスの宣教師を先に立たせ、しかも彼にもカン
テラを持たせて街々をねり歩きましたが、みん
なカンテラの油煙で鼻の穴が真黒になりました。
 板垣退助が豊橋へやってきた後に後藤象二
郎が大同団結を旗印にして別院で講演会をや
りましたが板垣のときほどの人気はありません
でした。 のちに大隈重信が治国平天下をスロ
ーガンに八町学校で演説をやりました。後藤象
二郎よりは人の集りもよかったが、やはり板垣
ほどのことはありませんでした。とにかく、豊橋
を訪れた政治家のうちで板垣ほどに人気もあ
り歓迎された政治家はその後に例がありません。


「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より近藤寿市郎  

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2016年10月27日

2016年10月27日

「昔はなし」その106 先代の加藤六蔵さん

先代の加藤六蔵さん

 先代の加藤六蔵さんは立派な人でした。代議
士として評判がよく、知らない人にはどこかの
華族様かと思われたほど立派な容姿でした。
 お抱えの人力車がおいてあって、それで豊橋
へやってきました。いつも虎の皮が人力車のう
しろにかけてあるので誰にでも「ああ、加藤さ
んの車が行く」と一目でわかりました。
 あの人のくせは、話しながら両手で眼鏡に手
をかけることでした。豊川畔の更科へよく飯を
たべにいきましたが、一人前廿五銭の飯を喰っ
て借りていくので、更科の主人公は前芝まで掛
取にいくのに骨が折れたといっていました。
 殿様風だった加藤さんは、そういう細かい勘
定には無関心だったのです。
 更科で飯を喰ったあとで関屋河岸から前芝ま
で船でもどったとき、前芝の海へ船を放ったら
かしたままなので、船主が困ったりしました。
加藤さんはそういう無とん着な人でした。
 ある晩でした。店を閉って寝ようとしていると
表戸をどんどんたたくので開けてみると、どか
どかと二十人位入ってきました。店はしまった
からと女中が断わると「主人に会わせろ」とい
う話です。出てみると、東京の富士見楼、加賀
屋、それに名古屋の河文なども混って一流の
料亭の主人公ばかりでした。事情を聞くと、加
藤六蔵さんが料理屋税を増すという案を国会
に出すから、それを阻止しなくてはならない。
いまから前芝へ行きたいが、この夜中では会っ
てくれないと困るから君が案内してつれていけ
と云う次第です。
 私も困りはてましたが、どうしてもと言うので
二十台の人力車をつらねて前芝まで行きまし
た。「千歳楼です、開けて下さい」というと開け
てはくれましたが、ドカドカと二十人も土間へ入
りこんだので加藤さんの家でも驚いたらしいの
です。
 加藤さん方では番頭さん数人が起きてきて万
一のことがあってはと、加藤さんのまわりを警
護していました。そこで代表が増税反対のこと
を述べると、加藤さんは、それは何かの誤解だ
と語りました。結局東京の連中の早合点だと、
あとでわかりました。
 このことから日本全国に料理屋組合のできる
契機をつくつたようなもので、つまり加藤さんの
おかげで料理屋組合が日本に生れたとも言え
ましょう。



「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より加藤六蔵  

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2016年10月26日

「昔はなし」その105 聟さまの花火法帳

聟さまの花火法帳

 祇園祭の上伝馬の花火は「つな火」で町の角
から、坂下まで綱がはってあってそれへ火を点
じると、鯛の車やいろいろの人形が走っていく
のは見事でした。萱町は手筒でした。今の方は
想像しにくいでしようが、家の中で手筒を出し
たものです。笹踊りが会所から出ると家の中
で手筒を出して、その火の下をくぐって笹踊り
は外へ出ました。
 三浦町、指笠町は玉火でした。一本の竹へ玉
が十二くらいはいっていまして、これも立派な
ものでした。関屋、八町は流星というものでし
た。細長いものが長い竹の上に支えられてい
ました。その細いものに火がつくと流星がぽん
と一つの星となつて出ます。その竹は十五、六
人の若い衆がしっかりもっているんですが、火
勢が強いと若い衆の足が土から離れることが
あります。指揮者が「それツ」と号令をかける
と、若い衆はぱっと手を離すと、竹の柱をつけ
たまま、流星を吐きつつ、それは空中へ舞上
っていきます。当時、わら屋根ばかりの街でし
たが、花火で家を焼いたという話はありません
でした。
 打揚煙火など毎年個人的に新菊とか青星と
かに思い思いに定め、その時の様子を煙火法
帳に記して門外不出で何人にも秘密にしてあ
りました。見物人は花火によりあれは誰の煙
火かとすぐわかりました。昔は八ヶ町以外に婚
約はしない時代があり聟入りの時は煙火法帳
が聟の最も重要な輿人土産でした。
  

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2016年10月25日

「昔はなし」その104 火を吹く大筒の行進

火を吹く大筒の行進

 豊橋の祇園祭(吉田神社また天王様という)
は昔から花火の祭でした。札木町の団子の印
が生れたのは、京都の祇園などの因縁から、
あ々いう旗印ができたのではないでしょうか。
祇園祭には昔の吉田藩主が関係していたの
で、おそらく藩主が考えて、各町内へそれぞれ
祭礼の行事をうまくあてはめていったのでしょ
う。だから八ヵ町のうち、幾分気風の柔和しいと
ころへ花火を割りあて、元気よい魚町へは花火
を当てがわずに、御輿をかつがせるなど、町内
の気分を考慮したものと思います。
 昔は、花火で大きな負傷も少く、花火で火事
を起した例も少いようでした。札木にしろ、どこ
にしろ、みんな瓦屋根でなく、草ぶきの家でし
たが花火で火事を起したことがないのは、昔の
人が花火を軽卒に扱わなかったものと思います。
 祇園祭における札木の大筒は、昔は「いない
筒」と申しました。若い衆はふんどし一つの浴
衣で片肌ぬぎになって、大筒に火をつけてシュ
ーシューふき出すのをかついでヤツトーヤツト
ーと札木角から今の郵便局あたりまでねった
のです。
 当時の大筒は、今とちがって、火の出る口の
寸を大きく切り筒口から火がこぼれるように、
下へ下ヘと火は流れおちてくるのです。それを
頭からかぶるのだから勇壮でした。
 その後町中を火のふくいない筒をかつぎまわ
ることが禁じられたので、据置きになりました。
そうなると、以前とちがって、口の寸法は小さく
なり、火柱が上へ向って高く立つように変った
のです。それから「いない筒」の名称が大筒と
改まりました。
 火のふいたままの大筒が、裸の若い衆によっ
て町の中をヤツトーヤツトーと走る昔の札木の
いない筒はほんとうに勇ましかったですね、今
は広い道路もできたんだから思いきってやって
みたいですね。
 祇園祭における本町の花火は「たてもの」
(建物)今でいう仕掛花火でした。今の仕掛花
火の比でなくって、驚くほど豪華でした。火がつ
くと両方ヘ観音開きに開くのですが、その開い
た左右の長さが本町中の長さと同じでした。
本町の花火はこの「たてもの」で仕掛花火とし
ては立派でした。町の中でどうしてそんな大き
な花火が出せるかというと屋根の上で仕掛を
出すのですから邪魔ものはないのです。空中
楼閣とはこのことで、今日の銀座のネオンどこ
の美しさではないんですよ。屋根の上ですから
観音開きだつて自由自在です。今の家のよう
に屋根は高くなく凸凹もありませなんだから
便利でした。
 見物もまた屋根へ上って見たわけですよ。
各家とも、屋根から火の粉が降ってくるので店
先へは竹のスダレをかけましたが、屋上の仕
掛花火をやらなくなってからも、本町辺は店へ
竹のスダレをかけるのが習慣となりました。
これは花火の名残りです。
 以前の祇園祭は旧暦の六月十三、十四、十
五日でしたが今は新七月十三、十四、十五日
となりました。昔は各町とも六月一日から祭典
の終了まで一般に休業で各家庭とも別火で食
事をし毎朝水ごりで身体を清めました。十三、
十四の両日は各町とも煙火十五日は御輿の
渡御で吉田神社から御輿は出御、本町横町
の天王社御検所に入られ、それから古田神社
へ還御されました。
 各町の御供行列は札木は飾鉾(カサボコ)、
上伝馬は多田満仲(マンヂウクライなど云う)、
関屋は頼朝公子供姿、八町は御乳母、萱町、
指笠町は笹踊、三浦町は稲穂、本町は十人
の騎馬武者、今は子供が勤めますが何れも
鎌倉時代を偲ぶものです。



「三河国吉田名蹝綜録」より

仕掛け花火

神輿

飾鉾

頼朝行列

笹踊り

騎馬武者



  

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2016年10月24日

「昔はなし」その103 華山の俳句

華山の俳句

 伏見宮様に御覧に入れた崋山の作品のなか
で桜の枝を描いたものがあって、それに
   こんな日にいくさもしたか花の山
 と賛がありました。味わいふかいものでした。
またある所から拝借したものに祭の御輿をわ
っしよい、わっしよいと若い衆がかつぎ廻って
いる絵に
   やがて死ぬものとは見えずセミの声
と添句がありました。崋山らしい人生観があふ
れているものでした。他に崋山の「オランダ人
の肖像」や小華の「ちん」も出ました。こういう
ものが主となって宮様の廿一日間の御滞在を
御慰めしたのですが、借し方では、心配でちゃ
んと待っていて取替がすむと、さっと持って帰
るというほどに、楽屋裏は大へんなことでした。
私も華山の真筆、名作をこのように沢山拝見
した機会はこれが最後でした。
 伏見宮様がこられたことがあります。伏見宮
様は書と盆栽が好きで、二十一日間の御滞在
に「ここは崋山や小華の筆が多いと思うが、も
し見られたら」といわれたのでさっそく市当局へ
話をしますと、市の方から有力者へ交渉して、
崋山、小華の軸や盆栽類が集められました。
 崋山の作品では「虎」「龍」「青緑の山水」油
絵風の「ヒポクラテスの肖像画」も出ました。こ
れはあとで小華が写生したことがあって、その
写生の作品も出されました。伏見宮様に御覧
にいれた作品の崋山の「秋景の山水」は頼山
陽の賛が加えられているものです。
 「もう一日かけておいてくれないか」と宮様は
大へん、お気に入りの様子でした。この作品は
お見せするのには羞かしいほどの、ひどい表
装でしたが、あとで山下汽船の社長の出下亀
三郎の手にはいりました。そのおり、崋山の
「蝉」小華の「トンボ」「不老こう門」なども出さ
れました。
 他に六枚折のびようぶが出ました。従然草の
びようぶと呼ばれるものです。この中の絵は狩
野風、土佐風その他いろいろな筆法が用いら
れ、しかも、それを見事に克服した崋山独自の
画風が躍動する見事なものでした。


 ヒポクラテス像/東京国立博物館蔵

  

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2016年10月23日

「昔はなし」その102 大山元帥の趣味

大山元帥の趣味

 大山元帥が豊橋へ来られたとき、「書画が見
たい」と言われました。あのような武人が、その
方面の趣味があるとは想像もしなかつたが、そ
れではということで名作をたずねたが応挙、景
文、呉春というようなものが大体、目ぼしがつ
きました。ところが大山元帥は「そういう新画は
好きでない」というのには驚きました。 「どうい
うものがお好きか」というと「雪舟、元信、雪村、
牧渓、等伯などのが見たい」と言われるので
す。たいがいの人は応挙などだと喜ぶが、そ
れを新画だというのです。
 大山元帥の所望された人々の作品をさがし
ましたが、豊橋にはどうしてもないのです。
「なければ強いてみなくてもよい」と言われて、
とりやめになりました。
 無風流と想像していた武人大山元帥の趣味
をはじめて知って、やはり威大な武人だと思い
ました。

  

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