2016年12月11日
「昔はなし」その151 三千円で失つた機関庫
三千円で失つた機関庫
東海道線が豊橋を通るようになったとき、今
ある日本相互(古の額ビル)の向うは、畑や田
畝で土堤を通って駅の前にヨシズ張りの茶店
が一軒だけできました。みかん、柿、菓子、に
ぎり寿司などを商っていました。
それをはじめたのは伊藤正則といって西川
由次、加藤平吉などという人々と同時代の政
治家でした。
それから半歳くらいで白須賀からやってきた
岡田屋が旅館を開業しました。その後、一年く
らいたってから、ぼつぼつ家ができました。
豊橋の駅ができてから後で鉄道の方で豊橋
を「大駅」としたいという説があったようです。大
駅というのは今、浜松にある機関庫を附随させ
た駅ということですが、当時豊橋で(たしか三千
円だったと思うが)その金が出せなかったかし
て、機関庫が浜松へできてしまいました。
当時、岡崎は駅が近くにできると教育的見地
から面白くないという意見で、駅を町から遠くの
場所ヘ敬遠しました。
昭和11年の豊橋駅
東海道線が豊橋を通るようになったとき、今
ある日本相互(古の額ビル)の向うは、畑や田
畝で土堤を通って駅の前にヨシズ張りの茶店
が一軒だけできました。みかん、柿、菓子、に
ぎり寿司などを商っていました。
それをはじめたのは伊藤正則といって西川
由次、加藤平吉などという人々と同時代の政
治家でした。
それから半歳くらいで白須賀からやってきた
岡田屋が旅館を開業しました。その後、一年く
らいたってから、ぼつぼつ家ができました。
豊橋の駅ができてから後で鉄道の方で豊橋
を「大駅」としたいという説があったようです。大
駅というのは今、浜松にある機関庫を附随させ
た駅ということですが、当時豊橋で(たしか三千
円だったと思うが)その金が出せなかったかし
て、機関庫が浜松へできてしまいました。
当時、岡崎は駅が近くにできると教育的見地
から面白くないという意見で、駅を町から遠くの
場所ヘ敬遠しました。
昭和11年の豊橋駅
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし