2016年07月14日

「昔はなし」その1 私の父と祖父

私の父と祖父

私は明治三年に豊橋札木町に生れたんです、
父は長坂重次と申しました。これが、どういう
ものか、届出もしないのに戸籍で十治に変っ
てしまっているんです。妙なことです。母は
ミイと言って髪結いでしたが″みと″になって
しまいました。それ以前の話になりますが、
まだ私が生れない頃、ミイの母キミという婆
さんの主人は長坂重兵衛という人で、京都の
人だったようです。重兵衛がつまり私の祖父
でもあり、私の家の開祖というわけです。
この人は茶人で茶器類を多く持っていて絵も
描き詩・文章・俳句をも楽しみ、茶もするとい
つた風流人で屋号を「かたばみ屋」と称して
いました。
号を片亭主人と申し、文人墨客が友だったよ
うです。この重 兵衛は宮中につとめていて、
天子様が御殿内を御通りするとき、玉歩の前
へ新むしろをひき、あとからそれを巻きかえす
御役目をやっていたとか聞いています。
京都にいたころは柿内大炊守蔵人という名前
だったそうです。
 昔、私は京都の畑在周という土佐派の画伯
に名を調べてもらつたことがありますが、柿内
大炊守蔵人という名があったことだけは判りま
したが、京都の住所は不明のまゝになってし
まいました。重兵衛は茶道は表千家流で豊
橋に来てこの流派を伝えました。私の家は当
時下駄をならべたり、ミカンや柿など小さい商
いをやってました。私の家の隣りに無商売の
若松屋というのがありました。そこで田原の百
一才まで生きた本田と云う人の娘を貰いました
が、その娘が支那へ行ってしまったので、私の
妹のイマをそこへくれました。そこへ養子を貰っ
たのが若松園の先代で、若松園の創設者です。
これから私が聞いたこと、見たことをぼつぼつ
お話して参ろうと思います。私の家名は片亭と
云いましたが後で千歳舎(原田圭岳画伯の命
名)そして千歳楼(小野湖山翁の命名)と変わ
りました。



以下の写真は昭和11年発行の「躍進豊橋市制三十周年記念写真」からです。

「昔はなし」その1 私の父と祖父

「昔はなし」その1 私の父と祖父


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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(1)豊橋の昔はなし
この記事へのコメント
神野新田の歴史をホームページを作成し、情報を収集して記事として上げている者で、こちらの「昔はなし」にたどり着きました。

神野新田の出身ですが離れて50年になり、故郷のことを知らないことを実感してますが、入手できる情報は多くありません。

ネットで調べられることをホームページの「神野新田」という下のURLで公開してます。(お寺や神社や資料館のホームページも作成中です)
https://jinnoshinden.jimdofree.com/
 ・初代金之助翁は牟呂ではどこに住まわれていたのか?(新田事務所?)
 ・明治29年の完成式の会場は神野新田事務所(土地改良区)なのか?
 ・苗字を ジンノ から カミノ に改称した理由
など、いろいろと知りたいことが多数あります。

疑問点や不明点を教えていただくことは可能でしょうか?
なにとぞよろしくお願いいたします。

香川県高松市 服部幸年
メールアドレス : santaroyasima@gmail.com 
Posted by 服部幸年 at 2019年05月29日 09:30
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