2016年07月31日

「昔はなし」その18 竹沢万治のコマ

竹沢万治のコマ
 
 常小屋にかかった演芸もので今も目に残っ
ているのはコマ曲芸の竹沢万治でした。二畳
敷くらいの大コマを舞台で廻すんです。伴奏よ
ろしくハッシと扇子でコマをうつと、廻っている
コマの蓋がポカッと開き中から唐風俗の子供
が三人飛び出してきて、舞台で踊るのです。
 その間に竹沢万治は衣裳をすばやく変え
て踊ったり、綱の上を奴ダコよろしく、舞うの
です。
 また、軽業(かるわざ)…つまり昔のサーカ
スが関屋へきたとき両国はなという十七、八
才の美女が立派な芸をやりました。かみしも
を着て、日傘、扇子、黒塗り高足駄で、舞台
に立てた六枚屏風の上を往復したりその上
で踊るのです。大した芸人でした。私は当時、
大人いくら、小供いくらというビラの紙を書かさ
れては木戸御免でした。当時は高い木戸銭で
大人三銭、小供一銭五厘くらいだったと思います。



  

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2016年07月30日

「昔はなし」その17 手間町の芝居小屋

手間町の芝居小屋

 豊橋に最初に建築された劇場は……もっとも
当時の小屋には名称などはなく、ただ常(じょ
う)小屋と言ってましたが……手間町西光寺の
西にできました。私が生れた頃より二、三十年
前に造られたもののようです。小屋は右側に札
売場があって、正面から出入りしました。間口
も今考えると、十間か十一間あったようですが
汚ない小屋でした。二階もありましたが、女郎
が二階に陣どったものです。
 助高屋高介(初代)はじめ中村芝翫などが
来たことも覚えています。阪東秀調も来ました。
興業は、千両役者を買って打つような勧進元
は豊橋にないので、向うが小屋を借りての手
打ちだったようです。
 役者の市中廻りは「かご」で女形らしく女の
姿で、きれいなものでした。どういうものか、千
両役者はみんな料理人を一人づつ帯同してい
て、宿屋で出す以外のものを、この料理人に
作らせていました。
 芝居はたいてい夜中の三時に開くのです。
花柳界の女たちは十二時から風呂にはいって
化粧などしていると寝るひまは全くありません
でした。当時、日和下駄が流行でして、カラコ
ロと夜中にその音が喧しくございました。明方
には初幕がすんで二幕目にかかる具合で、
お昼飯を小屋ですまして、一時頃にはもうハ
ネて終演となりました。

  

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2016年07月29日

「昔はなし」その16 土屋少将と伏見宮

土屋少将と伏見宮

 福原聯隊長のあとで岡崎出身の土屋光春さ
んが旅団長で来られました。この人は多趣味
な方で、画家、書家、文人を集めて毎月のよう
に会合を開かれました。
 東京などから客がくると、巡業中の力士をつ
れてきて、官舎で相撲を余興にやってみせると
いうような遊びをする人でした。大関の小錦が
招かれた日に、客の中で「相撲は野蕃だ」と一
杯きげんで云うと小錦がビール瓶で殴りつけ
そうになりました。土屋さんも、すっかりあわて
て止めるという一幕もありました。
 伏見の宮が検閲で二十一日間も私方 へお
泊りになったときは、じつに神経が疲れました。
もちろんその間は、一般のお客様はお断りして
のお宿です。
 静岡へはじめお泊りになったので、向うのお
宿を拝見に参りますと、敷布団が五枚になって
いるのにまず驚きました。私の方は三枚のつも
りでしたので、早速二枚追加して五枚の敷布
団ということにいたしました。
 伏見宮貞愛親王さまは料理の巧者な方でし
た。なにしろ砂糖、味淋は使わせない。野菜で
も魚でもできるだけ、その形、その味を失わぬ
ようにということで、細工をしすぎた料理は喰
べられないのです。
 そういう宮さまの二十一日間の朝、昼、晩、
六十余回の献立を重復しないようにつくること
は親爺も私も、苦心しました。器物は京都へ
走ってととのえたものです。いっさいが白生地
というので、骨を折りました。
 書画がお好きだという話なんで、地方の名望
家の秘蔵品を拝借して、毎日それを取換えて
ごらんにいれるのですがこれもまたなかなかの
苦労でした。盆栽がお好きで、御帰京のおりは
豊橋で手に入れられた盆栽でいっぱいで、そ
の中に伏見宮さまが立っていられる格構でし
た。
 ただ、御泊りになっているときは、いっさいが
予定時間通りで、一分と御行動の時間をたが
えさせられぬので、料理などは時間通りに用
意いたせばよいので、この点は楽でござい
ました。




ウィキペディアより
土屋光春

伏見宮貞愛親王
  

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2016年07月28日

「昔はなし」その15 豊橋女郎のストライキ

豊橋女郎のストライキ

 明治十六年頃です。いわゆる宿場の飯盛(め
しもり)女が女郎になりました。まだ家のつくり
は昔のままで、奥の方を改造して女郎部屋を
つくりかけました。当時、福井屋のかの子とい
うのが先達でストライキが起ったことがあります。
 かの子はたいへん美人で、なかなかしっか
りものでした。籠の鳥の彼女らが、女郎全部へ
連絡をどういう具合につけたが問題ですが、そ
れは揚屋へ泊って引きあげる朝、どこかの軒
下で、連絡や相談をしたと見えます。
 当時、線香一本たくのに一時間で、線香一本
の時間が十二銭五厘でした。三本を規準にし
て三十七銭五厘がだいたいの遊びで、 一晩
泊ると十本で一円二十五銭とされていました。
 ところが女郎の方から言わせると、この料金
では小使にもこまるし、まして借金が抜ける希
望もない、だから二本三十七銭五厘を十本ぶ
りに値上げしてくれという要求を出したのです。
そして泊りは倍の二円五十銭にせよというん
ですから、たいへんな値上げです。三本だと
八十七銭五厘になりますからね。
 楼主も大弱りで、それでは客が減るからと反
対したのでついにストになったのです。ストで
は商売にならないので、楼主も女郎の要求を
試験的に容れてみたところが、一向、客は減
らないので、値上はそのままになりました。
 あとで街の人々が汽車賃と同じで、高くなっ
ても乗る人は乗る、女郎も乗物の一つだからな
あ………と話あっていたことがあります。

  

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2016年07月27日

「昔はなし」その14 最初の聯隊長

最初の聯隊長

 私のことになりますが、明治十三年に二階屋
を新築いたしまして千歳楼もようやく料理屋ら
しくなりました。明治十八年に十八聯隊がで
きました。
 その頃の軍人は旧士族が多かったので
軍人と云えば何処の商家でも大もてで「お
金はいつでも結構です」という調子でした。
といって料理屋を飲み倒すような人もいま
せんでした。
 最初の聯隊長福原豊功さんなどは一カ
月三十日のうちの二十九日は、殆んど毎
夜、部下をつれて飲みに歩き帰りはいつ
も遅くなるので、人力を呼びます。
どの車も競って飛んできましたが、車は
ずいぶん待たせておくのです。それでも
車夫はいやな顔をしませんでした。 つま
り福原さんは、ポケッ卜にどれだけはい
っていても、それを全部車代として車屋
にわたしていたからです。


ウィキペディアより
福原豊功  

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2016年07月26日

「昔はなし」その13 小さんと千代吉

小さんと千代吉

明治十八年頃の名妓というと、福菱の小さん、
玉屋の千代吉、丁字屋の小ふさ、かぎやの
小ゆうなどです。
 芸はもちろん、品格もよく話題も豊富でした。
これらの名妓は十日や二十日前に口をかけて
も間に合わぬことが多かつたようです。小さん
はひょうきんな妓で、宴会などの席へ出て腹
が減ってくると紋付をはしょおって近所のうど
んやに飛びこんで、釜場にボウ立ちになった
まま、うどんをすすりこんだりしました。座敷
のもどりに露店の寿司屋へはいって、通り
がけの「あんま」を呼びこんで寿司をふるま
ったりしました。というのは「あんま」が寿司
を喰う顔の表情を見るのが面白いからでした。
「あんま」はあとで寿司をおごってくれたのは
小さんというねえさんだと聞くと、小さんの宣
伝をあちこちでしてあるいたものです。小さん
は大手通りなどを歩いていてタキギ売りの
婆さんなどに出会うと、タキギをそっくり買っ
てやるといった侠妓でもありました。
 千代吉は反対に、しまつ屋で評判でした。
当時、御祝儀は現金を、紙につゝみ芸者に
渡すんですが、その御祝儀の紙だって一枚
づつちゃんと蔵っておき、あとで自分で商売
をはじめたとき、三年間は鼻紙は要らなんだ
という話さえあったくらいです。


大正二年 豊橋市登喜和連組合

  

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2016年07月25日

「昔はなし」その12 中村道太と芸者清松

中村道太と芸者清松

 百花園には中村道太の息子の倉次が呉服
屋をしていましたが、中村道太は豊橋を代表す
る日本的の実業家になった人です。
 中村道太は歌もつくり、茶道もやりました。
第八銀行というのを百花園の入口につくった
ころから金融面に才能を発揮しました。だが
当時は、まだ金を銀行に預金するよりは仏檀
にしまっておく方が安全だと考えられていた世
の中でしたから、銀行商売もうまく行きませな
んだ。士族の商法で問もなく解散となり、つづ
いて名古屋百三十四銀行の支店が出来まし
た。これが愛知銀行のはじまりです。はじめの
支店長は繁野清彦と云う人でした。
 中村道太は横浜で正金銀行をつくったり、
東京で米穀取引所の理事長にもなって一世
の実業家となりました。身分の低い田舎藩士
から、このように成功した人の例は少ないで
しょう。
 福沢翁が慶応をつくったとき、ぼんと一万円、
当時の金を投げ出した中村道太は剛腹な人と
いうべきでしょう。
 関係すじを招待するに便利だからと東京で自
分が料理屋まで経営していました。料理人に
は豊橋から織清の主人をつれていったりしまし
た。その頃まで豊橋には女郎ばかりで芸者と
いうものがなくようやく、ただ一人の芸者が誕
生しました。この芸者一号は清松と言い、若く
美しく教養もあったので、中村道太はこれを東
京へ連れていって料理屋の支配人にしました。
料理屋は鷗雨荘とか申したようです。
 清松と中村道太とはべつに個人的関係は何
もありませんでした。大口喜六さんが「清松と
いうのは僕の親せきの娘だよ」と言っておられ
ました。清松が芸百般に通じて、文字通りの
芸者だったのも、大口さんの話でなるほど
相当の家庭の娘だったからだとわかりました。
それから三年くらいして、芸者というものが、
豊橋にも生れました。



「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より。
中村道太  

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2016年07月24日

「昔はなし」その11 蓬宇という人

蓬宇という人

 百花園にいた佐野蓬宇という俳人は本町の
よろずやという「まんじゆう屋」の主人でした。
息子に代をゆずり俳句生活にはいったので
す。近世の豊橋を代表する俳人で九十五才
くらいまで長命しました。
 明治十五、六年のころ、私たちが悟真寺に
碑を建てましたが、多分、あの碑のうしろには
     梅にのこり柳にへりし寒さかな
という句が刻んであったと思います。蓬宇の
名が全国的になったのは勅題、厳上の亀
     おのづから蓬莱なれや厳に亀
という句からです。蓬宇の名が天下に知られる
と東京で有名だった其角堂永機が主宰して、
弟子とともに蓬宇老人を東京へ招くことにな
りました。
 永機らが駅で迎えていると、いっこう蓬宇
らしい人が降りて来ないのです。こりゃ汽車
の時間がちがったのかと思って、ふと向う
を見ると一人の田舎くさい老人がしょぼんと
立っているのです。ふつうのエリサシのハ
ンテンに茶の頭巾という、ありふれた風さい
なんです。「もしや、あなたは蓬宇先生ぢゃ
ないか」と聞くとそうだと答えたので判った
そうです。
 そのときの永機の方のいでたちはドンス
のヒフに上をとめるポタンは金だったとか言
う話です。蓬宇は東京に半歳も滞在しました。
毎月、当時の金で六百円くらいづつ息子の
所へ送ってきたが、息子は道楽に使ってし
まったようです。
 蓬宇が豊橋へもどってきたのは夏の頃で、
今でいう弟子たちの歓迎会が玉屋で行われ
ました。その時の句が
    涼しさやもたれなじみの掾はしら
というのです。蓬宇の子孫は絶えてしまいま
した。その後、百花園をつくった中西も家を売
るようになり、百花園も消えて豊橋の一角に
開いた明治文化は、はかない夢と散じた感が
します。




「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より。
佐野蓬宇  

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2016年07月23日

「昔はなし」その10 村雨案山子の剣豪ぶり

村雨案山子の剣豪ぶり

 百花園の名物男の村雨案山子は旧士族で剣
道が達者でした。無欲淡白な人物で貧乏でし
た。家中に雨がもり、大雨がふると住家の真中
へおいたタライヘはいって「しょうがねえ」なん
て云いながら雨傘をさしていました。
 当時はまだ武者修行に歩く人間がいて、漫遊
の剣士が「一つお手合せを」と、村雨の玄関を
訪れると「よろしい」と大刀をさげて出て、さっと
真剣を抜くものだから、たいていの武芸者は
竹刀をかついで逃げだしたものです。
 選挙となると、お互いに壮士を雇いいれた
時代で東京からだって随分、大ぜいの壮士
がやってきました。自由党は村雨が一人いれ
ば用が足りて「村雨が来た」という声が聞える
と、どんな壮士でも泡を喰って逃げ出しました。
その村雨は正直いってんの男で、曲がったこ
とは大嫌いで、立派な男でした。
 妻君は八十の余まで東田あたりに住んで
いて亡くなったということだけは聞いています。



ウィキペディアより
壮士とは


「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
「村雨案山子とのぶ」  

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2016年07月22日

「昔はなし」その9 百花園の人々

百花園の人々

小華先生のおられた関屋の百華園は、楽隠居
とか、文人、墨客が集って、豊橋の人々は極楽
町とも呼んでいました。
 どんな連中がいたかというと、右側には中村
道太の息子の中村倉次が呉服屋をやり、その
隣りが佐野蓬宇宗匠、その隣りが書の井村常
山、左側は角に桝屋旅館の未亡人が楽隠居、
その隣りが茶人の石川米庵、その隣りが村雨
案山子でした。米庵は宗偏流の茶人で有名
でした。
 米庵の家は真四角で左が入口、つまり玄関
が寄付(よりつき)で奥が茶席でありました。
右手が自分の書斎で、その奥が水やで、風流
この上もない造りでした。
 書家の井村常山は後期は絵筆もにぎりまし
た。だから日本漫遊の支那人が多く訪れたも
ので、胡公寿、王琴仙、王治本などという支那
一流の絵描きが訪れたものです。
 村雨の妻君は、たいへんな美人でした。
今でいう線香花火――昔でいう「かんぜより」
花火をつくるのに妙を得ていました。花が沢山
で大きく開くので花火屋が頼みにきますが売ろ
うとしませんでした。
 村雨は自由党の党員で選挙になると忙しく
なって、大きなステッキをついて応援に出かけ
ると相手の党の用心棒がさっと逃げ出すほど
の男でした。


ウィキペディアより
中村道太  

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