2016年11月30日

「昔はなし」その140 首相夫人となつたお花

首相夫人となつたお花

 秋琴楼とか香雪軒へ愛知県の県令であった
勝間田稔がよく現れていました。香雪軒は、い
まの名古屋の商工会議所のあたりで、この香
雪軒へ同様にしばしば足を運んでいたのは、
当時の名古屋師団長の桂太郎でありました。
 勝間田は礼儀正しい学者肌の人で、桂太郎
はまた民間でも好評さくさくたる人でした。
 この香雪軒にお花という娘がありました。美
人というほどではないが、しとやかで男好きの
する娘でした。勝間田も、桂と同じように、この
お花にいわゆる中年の恋をしていたわけで
す。そして桂が東京転任となったとき、お花は
桂につれられ、ひそかに東京へ上ってしまい
ました。さぞ勝間田県令の胸中はやるせないも
のがあったと想像します。
 お花は、のちのち桂太郎の令夫人となり、さ
らに日本国総理大臣桂太郎の令室となったわ
けですが、名古屋の芸者たちが訪ねていって
も、少しもえらぶらず、よく親切にもてなしてい
たようです。
 勝間田はお花を桂にうばわれた悶々の気持
を長者町のぜにやのすずによって慰めていま
したが、一名「ぜにすず」と言われた彼女は名
古屋の名妓中の美人でありました。

  

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2016年11月29日

「昔はなし」その139 鉄道開通のころ

鉄道開通のころ

 東海道の開通式が行われたとき、名古屋の
秋琴楼の表には鉄道をかたどった大きなアー
チがつくられ、名古屋人を驚かせました。東京
の名妓連に名古屋の名妓それに京都大阪の
名妓も加えて賑やかなうちに秋琴楼へ来賓を
招きました。そのとき、料理は河文で作りまし
た。私もそのおり、料理を拝見して、さすが河
文の料理は名古屋第一と感じ、またのちのち、
大いに参考になりました。
 名古屋では、当時「河文の器物で、御納屋の
料理で、魚半の接待で、八千久の値段で喰べ
たい」ということが言われていましたが面白い
評でした。

  

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2016年11月28日

「昔はなし」その138 百個のずり鍋

百個のずり鍋

 名古屋の話になりますが、明治の初年に吉
田録在とか、奥田正春とかいう人々が名古屋
の発展を計ったものです。当時の名古屋にあ
った鯛めし、河文、魚半、御納屋、八千久、香
雪軒などは有名な料亭でした。
 とりわけ河文は三都にも例のない料亭で、こ
こは名古屋の旧家、金持が出入をし、鯛めしは
官員(役人)が客の中心になっていました。
 やがて県庁が名古屋へできることになったと
き、官員のごひいきの鯛めしの在る場所へ県
庁が建てられるような廻り合せになってしま
い、鯛めしは移転して秋琴楼と名を改めました。
 そのころ、秋琴楼へ或る連中が大ぜいの宴
会を申込みました。主人は相手に一物あること
を感じて断ろうかと思ったんですが、断れば後
がうるさいと思って引受けてしまいました。その
宴会の注文というのが人数は百人で飯はずり
鍋だと云いました。鍋は十五、六もあればよか
ろうかと思っていると、ずり鍋は一人に一つず
つで喰べたいというのです。もちろん七輪もめ
いめいでというんです。秋琴楼主人も「ようが
んす」と意地で引受けてしまいました。そして鍋
も七輪も百ずつ用意しました。
 あとで私が出会ったとき、ずり鍋が百もあって
困っているんだが、どうにかならんかと相談が
ありました。私も、そんな沢山は困る。手あぶ
りとか、宴会用の火鉢ならばと云ふと秋琴楼
主人が格好な小火鉢が三百個程あるがといい
ました。私は三十個でよいと云って三十個だけ
譲り受けました。
  

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2016年11月27日

「昔はなし」その137 捕虜監督の佐藤彌平

捕虜監督の佐藤彌平

佐野蓬宇は能について一見識をもっていて
「松風」のロンギが大好きで、生前よく私に「ロ
ンギを一つやってくれ」と言いました。ですから
建碑式のおり、私はロンギを一節やりました。
 この碑の建てられた悟真寺には日露戦争後
にロシアの捕虜がここに入れられました。その
ときの監督みたいなのが瓦町の佐藤弥平でし
た。この間まで市議をやっていた佐藤憲一さん
の父君です。当時の佐藤弥平は曹長くらいで
したかな。


能楽用語辞典よりロンギとは  

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2016年11月26日

「昔はなし」その136 蓬宇の句碑

蓬宇の句碑

 私の俳句の師で俳聖佐野蓬宇の碑は悟真寺
に小野道平、鈴木梅巌、水野耕雨らが主とな
って建てたわけです。蓬宇には辞世はなかっ
たので、今まで詠んだ句のなかで
   梅にのこり柳にへりし寒さかな
をえらびました。
 その除幕式のとき、馬見塚の寺にあった一畳
敷くらいの大きな広口を借りてきて、それへ梅
の木を生けました。あまりの巨木に来賓もただ
「見事なものですな」とほめるんですが、小野、
鈴木らは「いや、いま水野がこの梅の木にのぼ
って軽わざをしたところですよ」と冗談を言って
いました。

  

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2016年11月25日

「昔はなし」その135 悟真寺の池

悟真寺の池

 悟真寺の山門は豊橋としては古建築として
残しておきたかったと思います。悟真寺の書院
は明治十一年に明治天皇の行在所となりまし
たが、あの上段の間は今も目に映じてきます。
天王小路に悟真寺の裏門がありました。真偽
は知らないが左甚五郎の作だといわれていま
した。
 悟真寺の本堂の前に、昔は池がありまして、
彼岸には亀を持っていって放生した人が多くあ
りました。この池はたいへん、おもむきのある
池で、一つは火災などのときの用水にというわ
けで作られたものと思います。樹木、石の配合
などもよく、自然に庭園の形を見せていました。



「三河国吉田名蹝綜録」より悟真寺

  

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2016年11月24日

「昔はなし」その134 問題になつた教科書

問題になつた教科書

 私は五、六才のころ、悟真寺にあった寺小屋
へ参りました。ここで読み書きを教わり、あとで
小学校令が出て八町小学校へ入学しました。
まず入学すると下等八級で、下等一級まで上
って、上等八級へと進むのです。下等一級を経
えたとき、一科目ふえました。これは今まで教
わったことを全部言わせられたのです。
 この頃、福沢諭吉の「民間経済録」という本を
教わりました。この中に「売薬はチリやホコリに
異ならず」という意味の文章があったことから、
全国の売薬業者からえらい問題にされました。
そちらの方はどういう具合に片がついたかは
知りませんが、そのまま教科書として、私らの
ときは用いられました。

  

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2016年11月23日

「昔はなし」その133 雲右工門の眼カ

雲右工門の眼カ

 豊橋へ桃中軒雲右工門がきたとき、私は矢
崎豊橋病院長にさそわれました。私は浪花節
などはいやだと思ったが、断りきれなくて家内
とともに出かけました。
 いってみると、ツンポ桟敷の後の戸まではず
されて、花道も舞台の左右も下足番のおる入
口あたりまで人でいっばいなんです。
 おりよく、知人が「ここへ」と呼んでくれて、そ
の中へ割込んで聞いたんですが、美声という
か、大声というか、とにかく大したものでした。
 感服して家へ戻ると、十八連隊の矢野という
大隊長が雲右工門と小学校が同窓の関係で、
すでに私の家へきておられて「今に雲がくるか
ら」という話に座敷など用意しているところへ雲
がやってきました。
 玄関へ私たち夫婦が迎えに出ると雲右工門
は「奥さん、今夜はよく来ていただきましたね」
といきなり言うのです。私は、あの満員の客の
中で、客の一人々々をちゃんと見ている雲右
工門の眼力には驚きました。
 桃中軒雲右工門がいかに名人であったか、
当時の新聞にこんな話がでていたのを記憶し
ています。それは、雲右工門が亡くなったおり、
多くの人が焼場へしのびこんで、骨や脳味噌を
盗みにいったというのです。まさかと思います
が、それほどに、人々から歓迎されていたのです。


  

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2016年11月22日

「昔はなし」その132 雲右工門と南部坂

雲右工門と南部坂

 当時、浪曲家として京山小円とか吉田奈良丸
とかいう名人がいましたが、桃中軒雲右工円
の真似だけは誰にもできませなんだ。それだ
け、彼がまた一段も二段も上位の名人だった
と思うのです。
 雲右工門は舞台へ出ると、満場を三分間くら
い、じっと客席をにらんでいましてから語り出し
ました。この二、三分間の長いこと、その間に
聴衆は完全に雲右工門にのまれてしまうわけ
です。
 雲右工門は、舞台へ出る直前一時間くらい、
ぐつすり寝ることにしていたようです。起され
て、それから舞台に出ると声の調子がよいとい
っていました。  
 私は南部坂を聞きました。「納戸らしゃの長が
っぱ、二段はじきの渋蛇の目、妻がけなした高
足駄…」と今もその枕言葉をおぼえています
が、それを歌いだすと満場はシーンとしてしま
います。あとさきになりましたが、雲右工門が
舞台に出るときは書生が紋付、袴で目八分に
して湯をもって出てきます。そういう演出方法
がじつに尊厳をきわめていて、雲右工門らしい
やりかただったと思います。


ウィキペディアより桃中軒雲右工円  

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2016年11月21日

「昔はなし」その131 旦那ができると赤飯

旦那ができると赤飯

 前に話した芸者の「かねつけ」「おはぐろつ
け」のことですが、いい且那ができると赤飯を
炊いたり、手ぬぐいを染めたりして、関係すじ
へ芸者が配ったものです。「それは、それはお
芽出たいことで…」というわけで、お祝いをもら
った方でも、御祝儀をつゝんで祝い返したりし
ました。
 いい旦那をもつほど、その祝いも派手でし
た。もちろん、誰がその旦那かは知るよしもあ
りません。ただ座敷などに出ているところへ、旦
那から呼びがくると、とるものとりあえずに引上
げたりするので、次第に旦那の名も紅燈の世
界では知られるようになりました。
  

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