2016年08月31日

「昔はなし」その49 梅巖はじめ僞作者たち

梅巖はじめ僞作者たち

 鈴木梅巖という画家がいました。市町村制が
しかれたとき豊橋町の町会議員 にもなりまし
た。この男が町会で立ちあがると必ず議長に
休憩を求めるので休憩議員の「しこ名」があり
ました。花園町にいました。
 はじめ梅巖は四条流のなかなかよい腕をも
っていましたが、次第に偽筆がうまくなり崋山
の名でどんどん描きました。浄円寺の印じゅう
の水野耕雨という人も、どしどし模写して巧み
でした。小華の弟子の華石は、少年の頃は小
華の玄関番だったが腕も上がるし、小華の信
用もあったので、華石の箱書さえあれば小華
の作品として許されていたくらいです。この華
石は、小華の偽作をいくらでもやりました。後
に小華の養子みたいになった人です。
 青涯は岡崎青涯、速州青涯と両方にいました
が、遠州青涯は華山の偽作者として有名にな
りました。買う者が悪いわけでこれらの偽作者
は誰からも叱られないで世を終りました。


  

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2016年08月30日

「昔はなし」その48 御油の玉寿し二川の橋本屋

御油の玉寿し二川の橋本屋

 御油の玉寿司は昔は有名でした。旅に出る
人、奉公に行く者が西へ向うときは御油まで送
っていつて、ここの玉寿司で別れたものです。
豊川のほうしの玉を型どったのかも知れない
が、一種変った卵巻きの寿司でした。シンは
卵の薄焼、上は厚焼きで、ちょうど弓の的の
ような形で老人も女子供も、この玉寿司は喜
んだものです。
 玉寿司の主人は、その昔、力士だったそう
で、それが素人になって寿司屋をはじめたの
です。稲石という名だったが、力士時代にそう
いう名だったかも知れません。相撲界にも、芸
界にも名が知れていて、東海道の上り下りの
役者、力士で、この玉寿司で一服しないものは
ないくらいでした。
 また、相撲や、芝居がかかると、そこには必
ずといっていいぐらいに、御油の玉寿司と染め
た「のぼり」が立っていました。男気のある人
だったらしい。東へ向う旅人は二川まで送って
橋本屋という宿で別れる習わしで小華先生が
東京へ立つときなども、私らは橋本屋まで送
りました。橋本屋の方は普通の宿で、別に名
物はありませんでした。
  

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2016年08月29日

「昔はなし」その47 飯村の三角めし

飯村の三角めし

 昔は春の遊びは岩屋以外にはありませんで
した。その岩屋には茶屋もなにもないので、弁
当持参の山ゆきでした。芸者もいく、組合もいく、
消防もいくという具合でした。もちろん、岩屋ま
で歩きでした。その途中に飯村の「三角めし」
という名物がありました。東海道の松並木とな
るところに古い戸板が出されて、それに「三角
めし」がならんでいました。
 つまり「こわ飯」というやつで、白こわに黒ゴマ
入りで三角形ににぎられてあるのです。餅米も
極上で、炊き方も上手で、この路を行く大てい
の人が食べたものです。炎天に天井もなく、街
頭のほこりをいっぱいかむった「こわ飯」ですが、
旅人や岩屋ゆきの客は喜んで口にしたもので
す。明治十一年頃までは店が出ていたようです。
  

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2016年08月28日

「昔はなし」その46 歯医者の草わけ

歯医者の草わけ

 歯医者の草わけは松光堂松五郎という男だ
ったと思います。今の本町の額ぶち屋の近所
に家がありました。松五郎は露店で合抜きを
やりながらも風流人で、すぐ向いで書画こっと
うを商っていた絹新という道具屋へよく遊びに
行っていました。
 歯の療治というと大てい松五郎の家へ行
ったものです。松五郎は晩年は歯科医をや
めて書画などをたのしんでいたが、どこで亡
くなったか消息は聞いていません。
  

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2016年08月27日

「昔はなし」その45 屋根にのぼる雛様

屋根にのぼる雛様

 明治五・六年ころの吉田神社の祭礼の時でし
た。もっとも社殿竣工御遷宮祭でしたがその時
の協賛の余興が各町内で催されました。札木
町はその余興を札木町から吉田神社までずっ
とつないでやったらということになりました。今
のようにアドカーで街を走りまわったり、山車を
ひくのとはちがって、つくりつけのものでみんな
が、そこヘ見物に出かけるのです。
 なかでも奇抜なものの 一つは三月の雛祭り
でした。なにしろ雛段が道から人家の屋根にか
けてつくられ、それへ生きた人間の雛様がな
らぶのです。内裏様、官女、五人ばやしみな生
きた人間です。もっとも昼夜、ぶっつづけで座
っているわけにはいかないので、何人かが交
替するわけですが、お雛様の役も楽ぢゃあり
ませんでした。



  

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2016年08月26日

「昔はなし」その44 豊橋のうどん

豊橋のうどん

 当節は豊橋のうどんが日本一と名をとるよう
になりましたが、どこの店もぐんとうまくなった
のは結構です。
 ただ、私は煮かけだけは丼はいけないと思
いますね。昔は天ぷらうどん、とりなんばんと
いった種(たね)ものは丼でよいにしても、煮
かけは、昔のような伊勢重をかさねた中で、出
前して届ける間にフワーンとうどんが蒸される
……その味は何とも申せません。
 重箱といっても、べつにうるし臭くはなくうるし
は抜いてあります。なかには、そのうるしの匂
いがよいと賞美する通もありました。昔に用い
たこの器は普通の伊勢重の小さいのよりも、
また一まわり小さかったのです。昔はきく宗の
「でんがく」大崎屋の箱寿司、それと、この伊勢
重の煮かけうどんが、豊橋の三名物でした。



伊勢重とは今の伊勢春慶のことだと思われますが、ここで云う「にかけ」とはどういうウドンだったんでしょうね?


  

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2016年08月25日

「昔はなし」その43 「でんがく」と「からし」

「でんがく」と「からし」
 
 きく宗では「でんがく」のほかに「冷したくず
まんじゆう」とか「しっぽく」「ぞう煮」なども売る
ようになりましたが、いずれも雅味に富んだも
のでした。
 「でんがく」のからしは昔から用いていました。
今のはときからしですが、昔はほんとうのから
しでした。「でんがく」にはさんしょうがよい……
などと語る人もいますが、「でんがく」は春に多
いので、木の芽などをあしらった習わしから、さ
んしょうがよいなどというんですが、それは単な
る料理屋式の「でんがく」で、美味求真となれ
ばからしに限ります。なにかにつけて今は上
品になりましたが、昔はきく宗などは客が自分
で運んだものです。
 「でんがく」はからしでない方がよいと云々す
る人は鰻丼に吸物をつけさせる客のたぐいで
す。最近は「でんがく」にすら吸物附きとなって
御座敷向になりましたが、ほんとうの「でんが
く」の味は吸物なしでいくべきでしょう。
  

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2016年08月24日

「昔はなし」その42 きく宗の先々代

きく宗の先々代

 きく宗の「でんがく」ですが、あそこの先々代
はなかなかのお茶人でした。髪も茶せん風に
結っていました。当時の「でんがく」は今よりも
巾が狭かったようです。その方が食べよくもあ
り味もたいへんよろしかった。味噌は純赤味噌
でした。
 「でんがく」をいれる器(うつわ)は長持(なが
もち)といって長持形の一方へ「でんがく」を串
を抜いて積み、片方へ菜めしがいれてありまし
た。芝居見物などへ持っていくのに昼つめても
らったのが夕方出してもまだほかほかしていま
した。この長持への「でんがく」のいれ方、菜飯
の盛り方などは、相当の茶人でないとできない
技巧が見られました。根が茶人である上に隣
の家が兼子魚典という大茶人だから、私はこ
れは魚典の意見によるものではなかったかと
想像しています。この長持がなつかしく私もこ
しらえてみたが、いまのきく宗にはその雛形は
なく、寸去がわからなくて弱った ことがありま
す。それでもどうにか作って、これをきく宗へ
持っていって「でんがく」と菜飯をつめてもらっ
たことがあります。
  

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2016年08月23日

「昔はなし」その41 四人びきの人力車

四人びきの人力車

 人力車もなつかしいものです。急患者などが
あると医者は二人曳きで走ったものです。二人
曳というのは前のかじ棒に綱がついていて、
一人がその綱をひいて走るのです。
 それへまた後おしがついた三人曳きも現れま
した。三人曳きというのは、ほとんどが見得で、
俺はこれほどの人間だぞと高ぶりたい連中が
やったものです。
 札木の人力車のたて場は「飛び車」と呼んで
いました。主人公は男ぶりもよく、侠気もあり、
車もきれいでした。主として花柳界がお客で
した。
 この頃ですね、ゴムマリが流行したもので
す。ゴムマリがないころは風船をふくらめて、
それに糸をかがってついたんですが空気が
もれるとしなびてしまい子供はべそをかきま
した。豊橋にゴムマリがはじめて現れたのは
明治十年頃でしょう。そのゴムマリは洋品屋
にシャツなどと一緒にならべられて、子供ご
ころに珍らしく眺めたものです。



「四人びきの人力車」という題で「それへまた後おしがついた三人曳きも
現れました」となっていて数が合いませんが原文通りです。


  

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2016年08月22日

「昔はなし」その40 馬車の流し

馬車の流し

 馬車がはじめて豊橋へ現われたのは七十五
年前の私が十才くらいでした。「馬車 のようさ
ん」と呼んでいましたが二頭立の馬車で、私は
よく乗せてもらいました。中は六人くらい乗れま
したが、駅馬車つまり、何処から何処まで定期
便でいく馬車ではなくて、そこらで呼びとめて好
きなところへ走ってもらうわけです。あまり遠く
は行ってくれませんでした。つまり、今の自動
車の流しのようなもので、人力車 へ乗るより
堂々としていると思う人が利用したわけです。
 田舎から出て来た老人たちが、この馬車に
出会ったりすると「いいものを見た」と喜んでい
たくらいですから、いかに珍しいものであった
かがよくわかります。豊橋の辻馬車はこれが
最初で最後でありました。

  

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