2017年01月31日
「昔はなし」その197 大西の隠居
大西の隠居
船町の服部の新家の方に大西の隠居といわ
れた人がありました。この人は服部平之助の
親爺にあたる人です。この人ほど豊橋で、よば
れることの上手な人はありませんでした。つま
り、人によばれるときの調子がいいのです。
中村道太が豊橋へきたとき、大西の老人を招
きました。一緒に昼飯を食うことになり中村が
「あなたはうなぎを絶っておいでとか聞いたが、
他に何かお好きなものでもあったら」というと、
大西は「いや、うなぎは自分だけの時は絶って
いますが、人様でおよばれするときは決して絶
ってはいません。いただきます」といいました。
何もかもそういう具合でした。
船町の服部の新家の方に大西の隠居といわ
れた人がありました。この人は服部平之助の
親爺にあたる人です。この人ほど豊橋で、よば
れることの上手な人はありませんでした。つま
り、人によばれるときの調子がいいのです。
中村道太が豊橋へきたとき、大西の老人を招
きました。一緒に昼飯を食うことになり中村が
「あなたはうなぎを絶っておいでとか聞いたが、
他に何かお好きなものでもあったら」というと、
大西は「いや、うなぎは自分だけの時は絶って
いますが、人様でおよばれするときは決して絶
ってはいません。いただきます」といいました。
何もかもそういう具合でした。
2017年01月30日
「昔はなし」その196 日清戦争と龍拈寺
日清戦争と龍拈寺
廿七、八年の日清戦争のおり、支那の捕虜
が竜拈寺に収容されていました。言葉は通じな
くても、筆談で話合えるというので、市内の人
が大勢出かけるようになりましたので、この自
由面会は中止になりました。
支那の捕虜には子供みたいな少年も沢山ま
ざっていました。ああいう十五、六の子供が当
時でも戦争にかりたてられたようです。
廿七、八年の日清戦争のおり、支那の捕虜
が竜拈寺に収容されていました。言葉は通じな
くても、筆談で話合えるというので、市内の人
が大勢出かけるようになりましたので、この自
由面会は中止になりました。
支那の捕虜には子供みたいな少年も沢山ま
ざっていました。ああいう十五、六の子供が当
時でも戦争にかりたてられたようです。
Posted by ひimagine at
06:00
│Comments(0)
2017年01月29日
「昔はなし」その195 若松園でサイダー
若松園でサイダー
豊橋でサイダーがはじめて作られたのは、日
露戦争のあとでした。ロシアの捕虜が悟真寺
にいて、散歩に出たとき「サイダーはないか」な
どとたずねましたが、豊橋にはなかったのです。
そこで若松園がサイダーを作るようになって、
散歩に出た捕膚が、若松園の店でよくのんで
いました。アイスクリームも同時でありました。
豊橋でサイダーがはじめて作られたのは、日
露戦争のあとでした。ロシアの捕虜が悟真寺
にいて、散歩に出たとき「サイダーはないか」な
どとたずねましたが、豊橋にはなかったのです。
そこで若松園がサイダーを作るようになって、
散歩に出た捕膚が、若松園の店でよくのんで
いました。アイスクリームも同時でありました。
2017年01月28日
「昔はなし」その194 食通と笹の葉
食通と笹の葉
「喰えない料理」つまり碗もりに笹の葉に青ぐ
もといった取り合せといった岩田屋の先々代の
話を食通に話しますと「それは面白い話だ」と
大喜びでした。
それからというものは、食通の連中が料理屋
などで一ぱいのむときに、オイ今日は笹の葉に
青ぐもだよという相言葉がはやりました。簡単
な料理で安上りでやってほしいという意味にな
ったのです。あっさりといくというわけです。
それが家庭へもはいってきて「笹の葉」という
ことは手のかからない簡単な料理という代名
詞にもなったことがあります。
「喰えない料理」つまり碗もりに笹の葉に青ぐ
もといった取り合せといった岩田屋の先々代の
話を食通に話しますと「それは面白い話だ」と
大喜びでした。
それからというものは、食通の連中が料理屋
などで一ぱいのむときに、オイ今日は笹の葉に
青ぐもだよという相言葉がはやりました。簡単
な料理で安上りでやってほしいという意味にな
ったのです。あっさりといくというわけです。
それが家庭へもはいってきて「笹の葉」という
ことは手のかからない簡単な料理という代名
詞にもなったことがあります。
2017年01月27日
「昔はなし」その193 岩田屋の先々代
岩田屋の先々代
本町の茶道の大家、兼子魚典のところへ、私
は出かけて、料理の話をしてもらい大いに教え
られるところがありました。千鳥、さが、おしど
り、うずら、へちま、れいし、ふきのとう、だいこ
ん等の種類についての料理方など教わりまし
た。
その兼子の家のすぐ前に岩田屋という金物
店がありましたが、この先々代は茶の心得の
ふかい人で、あるとき、私に「お前は兼子のと
ころへなにしにいくんだ」と聞くのです。私が
「お茶料理を習いにいきます」と申しました。
すると先々代は「面白くないなあ」というので
す。「そりやどういうわけですか」とたずねかえ
すと「調和と、その趣きということを私は料理で
いちばん注意している。私ならおひら=碗盛り
=などは例えば笹の葉と青くもでいくね」という
説明なんです。
私は驚いて「それじゃ喰べるわけにいかんじ
やないですか」と反問すると、先々代は「料理
は喰うのは二のきりで、見ての調和が第一だ」
と、笑って答えました。そして「だいたい兼子の
料理などは、まだまだ喰べられるから駄目だ」
というのです。これには私も驚きましたが、乱暴
なような話のなかに、なにか料理の真理がふく
まれている感じがしました。
本町の茶道の大家、兼子魚典のところへ、私
は出かけて、料理の話をしてもらい大いに教え
られるところがありました。千鳥、さが、おしど
り、うずら、へちま、れいし、ふきのとう、だいこ
ん等の種類についての料理方など教わりまし
た。
その兼子の家のすぐ前に岩田屋という金物
店がありましたが、この先々代は茶の心得の
ふかい人で、あるとき、私に「お前は兼子のと
ころへなにしにいくんだ」と聞くのです。私が
「お茶料理を習いにいきます」と申しました。
すると先々代は「面白くないなあ」というので
す。「そりやどういうわけですか」とたずねかえ
すと「調和と、その趣きということを私は料理で
いちばん注意している。私ならおひら=碗盛り
=などは例えば笹の葉と青くもでいくね」という
説明なんです。
私は驚いて「それじゃ喰べるわけにいかんじ
やないですか」と反問すると、先々代は「料理
は喰うのは二のきりで、見ての調和が第一だ」
と、笑って答えました。そして「だいたい兼子の
料理などは、まだまだ喰べられるから駄目だ」
というのです。これには私も驚きましたが、乱暴
なような話のなかに、なにか料理の真理がふく
まれている感じがしました。
2017年01月26日
「昔はなし」その192 団平が当てた彌七
団平が当てた彌七
きのうお話した豊沢団平の話ですが、あると
き三味線屋の店で豊沢弥七が頼まれて新しい
三味線に調子をつけていました。そこへ偶然表
を団平が通りかかったので弥七は「こりゃいか
ん」と奥へかくれてしまいました。
団平が何げなく、その店へはいると、新しい
三味線があって、三味線屋の主人が「師匠、
調子をつけていただきたい」と、頼むと団平は
それを手にとってみて、ちょっと、調子をみまし
たそして、いきなり「こりゃ調子が合っているじ
ゃないか、これは弥七が調子を合せたんだな」
と独りごとのように言いました。驚いたのは三
味線屋の主人だけでなく、奥にかくれていた弥
七でした。「やっばり判りましたか」と頭をかき
かき団平の前へ現れたという話です。団平の
偉さを伝える話の一つです。
きのうお話した豊沢団平の話ですが、あると
き三味線屋の店で豊沢弥七が頼まれて新しい
三味線に調子をつけていました。そこへ偶然表
を団平が通りかかったので弥七は「こりゃいか
ん」と奥へかくれてしまいました。
団平が何げなく、その店へはいると、新しい
三味線があって、三味線屋の主人が「師匠、
調子をつけていただきたい」と、頼むと団平は
それを手にとってみて、ちょっと、調子をみまし
たそして、いきなり「こりゃ調子が合っているじ
ゃないか、これは弥七が調子を合せたんだな」
と独りごとのように言いました。驚いたのは三
味線屋の主人だけでなく、奥にかくれていた弥
七でした。「やっばり判りましたか」と頭をかき
かき団平の前へ現れたという話です。団平の
偉さを伝える話の一つです。
2017年01月25日
「昔はなし」その191 団平に聞かせた小さん
団平に聞かせた小さん
豊沢団平といえば、当時は日本一の浄瑠璃
の三味線ひきでした。その団平が豊橋へきたと
き、私の家にも挨拶にきました。まあ上って下
さいというわけで、団平へのサービスは福菱の
小さん、山水の小ひななどをよんで接待しても
らいました。
ところが二人の芸者が義太夫を語ることにな
り台をつくらせ、カミシモまで着て天下の団平
の前で堂々と語ったのです。見ている方はひ
やひやしましたが、あとで団平が日本中を歩い
たが、私の前で義大夫を語ったのは豊橋の姐
さんたちだけだ。だが、こんな有難いサービス
ははじめてだと大喜でした。
豊沢団平といえば、当時は日本一の浄瑠璃
の三味線ひきでした。その団平が豊橋へきたと
き、私の家にも挨拶にきました。まあ上って下
さいというわけで、団平へのサービスは福菱の
小さん、山水の小ひななどをよんで接待しても
らいました。
ところが二人の芸者が義太夫を語ることにな
り台をつくらせ、カミシモまで着て天下の団平
の前で堂々と語ったのです。見ている方はひ
やひやしましたが、あとで団平が日本中を歩い
たが、私の前で義大夫を語ったのは豊橋の姐
さんたちだけだ。だが、こんな有難いサービス
ははじめてだと大喜でした。
2017年01月24日
「昔はなし」その190 豊橋と先代歌右衛門
豊橋と先代歌右衛門
明治十一年頃でしたかね。阪東秀調や中村
芝翫が豊橋へきました。中村芝翫というのは、
今の歌右衛門の先々代で例の常小屋でやりま
した。能狂言から出た「うつぼ猿」を芝居化した
ものをやりました。
そのとき芝翫の息子の福助が二十歳頃で伏
姫をやりました。その美しいことったらありませ
んでした。セリフの中で「はからずも豊橋へ参
上できたが、私は生れつき身体が弱いので豊
橋へ参るのもこれが最後になりましょう」と、ひ
どく悲しげな口上を述べたので客の中には泣
いているものもありました。その福助が後の歌
右衛門(先代のこと)となり、九十歳まで生きた
んだから、人の寿命のことはわかりません。
明治十一年頃でしたかね。阪東秀調や中村
芝翫が豊橋へきました。中村芝翫というのは、
今の歌右衛門の先々代で例の常小屋でやりま
した。能狂言から出た「うつぼ猿」を芝居化した
ものをやりました。
そのとき芝翫の息子の福助が二十歳頃で伏
姫をやりました。その美しいことったらありませ
んでした。セリフの中で「はからずも豊橋へ参
上できたが、私は生れつき身体が弱いので豊
橋へ参るのもこれが最後になりましょう」と、ひ
どく悲しげな口上を述べたので客の中には泣
いているものもありました。その福助が後の歌
右衛門(先代のこと)となり、九十歳まで生きた
んだから、人の寿命のことはわかりません。
2017年01月23日
「昔はなし」その189 卵ばかりの閑院宮
卵ばかりの閑院宮
昔、大倉喜八郎は毎日、うなぎを二切れくら
いずつ食したそうです。三度の食事も、家の中
でも三回とも場所を変えて気分の転換をはか
ったと申します。大山巖は三度、三度肉がよく
て、調理方も肉ばかりで調理に頭を悩ました。
閑院宮載仁(ことひと)親王は玉露が好きで食
事の茶も玉露でした。それに卵の料理が好き
で、一つの膳に卵なら五種でも六種でも卵料
理がのっていてもかまわないという方で、料理
するものが却って困ってしまいました。
昔、大倉喜八郎は毎日、うなぎを二切れくら
いずつ食したそうです。三度の食事も、家の中
でも三回とも場所を変えて気分の転換をはか
ったと申します。大山巖は三度、三度肉がよく
て、調理方も肉ばかりで調理に頭を悩ました。
閑院宮載仁(ことひと)親王は玉露が好きで食
事の茶も玉露でした。それに卵の料理が好き
で、一つの膳に卵なら五種でも六種でも卵料
理がのっていてもかまわないという方で、料理
するものが却って困ってしまいました。
2017年01月22日
「昔はなし」その188 土足のままの大隈夫人
土足のままの大隈夫人
大隈重信は治国平天下という本を書いて、そ
の宣伝のために豊橋へも参りました。ついでに
豊川稲荷へも参拝しましたが、沿道の老爺、老
婆にも心やすく話しかけて、その人気はたいへ
んでした。
大隈重信は、どこへ行くにも一週間分の食糧
を用意していましたが、私の家へ泊られたとき
は、その食糧は棚上げされ、私どもの料理で
満足していただいたので、大いに光栄に浴し
た次第です。
大隈重信の綾子夫人のエピソードですが、同
邸で園遊会が行われていたとき、急に雨が降
り出してきたので、夫人は書生や人夫を指揮し
て椅子やテーブルを新築の家の中へどんどん
運ばせ、自分から下駄ばきで、新築の家へ上
っていって「さあ、そのままで」と客も靴や下駄
のままで上らせたことがあります。
この話しは新聞にもでましたが、突作の気転
と、小事にこだわらないところは、さすが大政治
家の夫人だと評判でした。
大隈重信は治国平天下という本を書いて、そ
の宣伝のために豊橋へも参りました。ついでに
豊川稲荷へも参拝しましたが、沿道の老爺、老
婆にも心やすく話しかけて、その人気はたいへ
んでした。
大隈重信は、どこへ行くにも一週間分の食糧
を用意していましたが、私の家へ泊られたとき
は、その食糧は棚上げされ、私どもの料理で
満足していただいたので、大いに光栄に浴し
た次第です。
大隈重信の綾子夫人のエピソードですが、同
邸で園遊会が行われていたとき、急に雨が降
り出してきたので、夫人は書生や人夫を指揮し
て椅子やテーブルを新築の家の中へどんどん
運ばせ、自分から下駄ばきで、新築の家へ上
っていって「さあ、そのままで」と客も靴や下駄
のままで上らせたことがあります。
この話しは新聞にもでましたが、突作の気転
と、小事にこだわらないところは、さすが大政治
家の夫人だと評判でした。