2017年01月17日

「昔はなし」その183 本間校長の思い出

本間校長の思い出
 
 乃木将軍が自刄されたとき、どこかの新聞に
「乃木将軍の殉死について批判を下した人が
日本に三人あった」と書いてありました。この三
人の比判以外は誰もが軍人の鑑として大いに
賞揚していました。
 三人というのは東京の谷本博士、名古屋の
坂本市長、もう一人は豊橋高等女学校の本間
校長ではなかったかと思います。本間校長は
乃木将軍の殉死への批判を女学生を一堂に
集めてやったわけです。つまり「あゝいう精神
は決して賞すべきではないと云うことを語った
のです。
 私はそのことを聞いて、本間さんのやり方に
異論がありました。それは各自が思い思いに
考えることはよいが、学校長が生徒に向ってそ
ういう批判を強いることはおかしいと思いまし
た。そこで通学していた娘を転学させようかとも
考えたことがありました。 
 本間校長の乃木将軍殉死反対の演説に快よ
く思わなかった私は、娘を他の女学校へ転学さ
せようとしたが、家の親爺が女学校へ料理の
講師として出ていましたので、親爺が「俺も講
師とはいえ、つまりは教員のはしくれみたいな
ことをやっているんだから、お前がそんなことを
すると、俺の立場がなくなる」と息子の私にいう
ので、私も娘の転学だけはあきらめました。
 それからしばらくして、親爺が、いちど職員の
方々を家へ招いて簡単な昼飯でもさしあげた
いというので、私も賛成しました。何か余興をと
考えて能狂言を催すことになり、魚町へ話して
快諾を得、三番ほど演じることになりました。
「宗論」・「花折」・「清水」を出すことになりました。
 これを見て女教員たちは面白がってくれまし
たが、本間校長はと見ると、いっこうニコリとも
しないのです。私はそのとき、本間という人は
「無味というか感覚がないのかさっはりわけが
判らない人だ」とにくまれ口をたたいたものです。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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