2017年01月13日
「昔はなし」その179 豊川鉄道を救つた村野山人
豊川鉄道を救つた村野山人
豊川まで敷かれた豊川鉄道を、その後新城
まで延長することになりました。のろいとか、お
そいとか言われたのがスピード化して二時間
余で新城まで行けるようになりました。
開通の祝いは新城で行われました。帝国ホテ
ルの専務であり支配人であった横山孫一郎も
臨席していたようです。しばらくしてから豊川鉄
道が財政的に行きづまるときがきました。その
とき整理のためにやってきたのが有名な神戸
の村野山人でした。この人は警察出のように聞
いていましたが、山陽鉄道を発起して一人でつ
くったという、なかなかの人物でした。
豊川鉄道整理を依頼されて神戸からやつて
きた村野山人は誠実な人で、豊川鉄道も立直
るようになりました。村野山人には私も近づき
になりましたが、能楽が好きな人で、自身も能
楽をやっていました。大阪の観世流の大西閑
雪と大西亮太郎について習っていました。
あるとき、その両先生を豊橋へ招きたいと発
願して、魚町の能楽堂で両先生の演能を行い
ました。なかなか、立派な能会でしたが、その
費用のいっさいは村野山人が一人で負担され
ました。
豊川まで敷かれた豊川鉄道を、その後新城
まで延長することになりました。のろいとか、お
そいとか言われたのがスピード化して二時間
余で新城まで行けるようになりました。
開通の祝いは新城で行われました。帝国ホテ
ルの専務であり支配人であった横山孫一郎も
臨席していたようです。しばらくしてから豊川鉄
道が財政的に行きづまるときがきました。その
とき整理のためにやってきたのが有名な神戸
の村野山人でした。この人は警察出のように聞
いていましたが、山陽鉄道を発起して一人でつ
くったという、なかなかの人物でした。
豊川鉄道整理を依頼されて神戸からやつて
きた村野山人は誠実な人で、豊川鉄道も立直
るようになりました。村野山人には私も近づき
になりましたが、能楽が好きな人で、自身も能
楽をやっていました。大阪の観世流の大西閑
雪と大西亮太郎について習っていました。
あるとき、その両先生を豊橋へ招きたいと発
願して、魚町の能楽堂で両先生の演能を行い
ました。なかなか、立派な能会でしたが、その
費用のいっさいは村野山人が一人で負担され
ました。
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし