2016年12月02日
「昔はなし」その142 二十才の天才と金剛先々代
二十才の天才と金剛先々代
この豊太閤祭の演能のおりに、宝生九郎は
「放下僧」をもつとめました。観世の方では先
代の梅若実が「羽衣」を演じました。梅若実は
腰が二つに折れた老人でしたが、裳束をつけ
ると、実に美事な姿でした。ワキをつとめたの
が、金五郎の息子の宝生新でした。まだ二十
歳くらいの若さでした。そのワキが出てきて
「虚空に花ふり音楽聞こえ、露香四方にくん
ず……」という言葉に、見る客、聞く客すべて
が、虚空から花がふり、音楽が聞えてくる思
いでした。二十歳の新はすでに名人であった
のです。
この時の演能は日露戦争のすぐあとでありま
したので、「平じよう城」を宝生九郎が独吟し、
また「せいかん駅」を梅若実が独吟しました。
今も、その名調は耳にのこっています。
この演能でとくに感じたことは、演じ終って、
するするとはいっていく演者の後姿はまことに
見事な美しさでした。宝生九郎も、梅若実もそ
の去っていく後姿には、こちらの身体が吸いつ
けられるようなたまらない魅力がありました。
かくて、私は五日間うちつづいた演能に、な
んとも申せない喜びと感激をおぼえて豊橋へ
戻ったのですが、未知の、会員章もない田舎
の豊橋から出ていった私を、親切に世話をして
くれた人は金剛流家元の先々代の金剛謹之
助だったのです。
私は、家元と聞いて驚きましたが、そのおか
げで、またのちのち永く御交際をかたじけなくし
て、豊橋にも来てもらったりして、親しくさせて
もらいました。
帰りの汽車の中で、この会の会員章をつけた
人々と一緒に乗合せたので、私もいろいろ語り
合いました。その「会員章はどこの席でしたか」
と聞くと、下の土間であったということでした。
私は心のなかで金剛家元の厚情に感激せず
にはいられませんでした。
この豊太閤祭の演能のおりに、宝生九郎は
「放下僧」をもつとめました。観世の方では先
代の梅若実が「羽衣」を演じました。梅若実は
腰が二つに折れた老人でしたが、裳束をつけ
ると、実に美事な姿でした。ワキをつとめたの
が、金五郎の息子の宝生新でした。まだ二十
歳くらいの若さでした。そのワキが出てきて
「虚空に花ふり音楽聞こえ、露香四方にくん
ず……」という言葉に、見る客、聞く客すべて
が、虚空から花がふり、音楽が聞えてくる思
いでした。二十歳の新はすでに名人であった
のです。
この時の演能は日露戦争のすぐあとでありま
したので、「平じよう城」を宝生九郎が独吟し、
また「せいかん駅」を梅若実が独吟しました。
今も、その名調は耳にのこっています。
この演能でとくに感じたことは、演じ終って、
するするとはいっていく演者の後姿はまことに
見事な美しさでした。宝生九郎も、梅若実もそ
の去っていく後姿には、こちらの身体が吸いつ
けられるようなたまらない魅力がありました。
かくて、私は五日間うちつづいた演能に、な
んとも申せない喜びと感激をおぼえて豊橋へ
戻ったのですが、未知の、会員章もない田舎
の豊橋から出ていった私を、親切に世話をして
くれた人は金剛流家元の先々代の金剛謹之
助だったのです。
私は、家元と聞いて驚きましたが、そのおか
げで、またのちのち永く御交際をかたじけなくし
て、豊橋にも来てもらったりして、親しくさせて
もらいました。
帰りの汽車の中で、この会の会員章をつけた
人々と一緒に乗合せたので、私もいろいろ語り
合いました。その「会員章はどこの席でしたか」
と聞くと、下の土間であったということでした。
私は心のなかで金剛家元の厚情に感激せず
にはいられませんでした。
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし