2016年11月12日

「昔はなし」その122 妙円寺をめぐる話

妙円寺をめぐる話
 
 私は故知人の墓参りを何十年もつづけてい
ますが中でも私の漢学の先生太田清斎先生
の碑は私ども門弟連で建てました。私はいつ
も、その碑にもお参りをするのですが、この碑
は私たち同窓生が妙円寺内に建てたもので碑
文は石川鴻斎に書いてもらいました。除幕式
には石川鴻斎も来ました。私は当日碑文を読
んだ想出もあります。
 そのころ、妙円寺に参ると日蓮宗の管長の法
話最中の事でありました。本堂に人が集ってい
るので、よく見ると本多日照師が大雄弁をふる
っておられました。
 たたずんで聞いていますと「ロシアは共産思
想を日本に植えつけるために全努力を払って
いる。最初軍隊をねらつたが失敗した。つぎに
寺をねらつたがこれもうまくいかない。そこで知
識人や教育者をねらうのがいちばん成功だと
言っている。将来、警戒すべきことだ」というよ
うな話でした。あれから随分と歳月は経ちまし
たが、今日の社会を思うとき偉人の言葉は必
ずしも誤りではないと思います。
 妙円寺といえばある一人の武士が豊橋で亡
くなったので、それを私の家で妙円寺に葬って
石碑を建てたのです。その武士の名も判って
いなく、どうして、私の家で葬ることになったの
かも判っていません。ただ、墓石に天明という
文字がほのかに読めるので時代だけは、その
頃のことと思います。その墓参りを何十年もつ
づけているわけです。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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