2016年11月08日
「昔はなし」その118 大木吉彌の十五円
大木吉彌の十五円
吉田藩の能裳束に能面を合せて三百円で小
久保彦十郎に払下げられることになつたとき、
小久保は一人でその金をつくるのが困難だっ
たので同町内の滝崎安之助、佐藤善六の二人
に相談しました。この二人は仲間に加わるとい
うのでなく、小久保援助の意味で、寄附的に三
十円ずつを出しました。 つまり六十円の金が
できたわけです。それでも金が足りなくて本町
の大木吉弥というのが十五円ほど出しました。
この大木というのは、なかなか「しまつ屋」でし
た。大木は一厘、二厘をやかましくいつて金を
貯めた男ですが、貧乏時代から芸事が好きで
長唄だけは近県にも知られている男でした。
大木は能楽にも、そういう意味で関心があつ
たわけですが、滝崎、佐藤の両氏とはちがつ
て、大木は十五円の株主になるような気持だ
つたのです。こうして残りの二百二十五円は小
久保が出して払下げをうけたがほとんど小久
保の所有品みたいになりました。また小久保
の所有でもあつたわけです。
その後、大木は十五円出した金の権利を
云々するので、相談の結果、縫箔の裳束二
枚を大木にやつて、彼の権利を解消させまし
た。その裳束は立派なもので、今もし残って
いたら余程の金額のものでしよう。
大木吉弥の後妻に八百吉という八百屋の未
亡人が入り、その間に吉次というのが生れ、こ
の間まで、土地や金の世話をしていました。市
内でよく見受けたとき「裳束が残っているか」と
聞くと、吉次は「さっぱり知らぬ」といっていまし
た。私は大木に渡した二枚の縫箔を大木に見
せて貰ったことがあります、一枚は真新しく一
枚は多少使ったもので真新しい方には水色地
に芦と鳥の縫模様という結構な裳束でした。
吉田藩の能裳束に能面を合せて三百円で小
久保彦十郎に払下げられることになつたとき、
小久保は一人でその金をつくるのが困難だっ
たので同町内の滝崎安之助、佐藤善六の二人
に相談しました。この二人は仲間に加わるとい
うのでなく、小久保援助の意味で、寄附的に三
十円ずつを出しました。 つまり六十円の金が
できたわけです。それでも金が足りなくて本町
の大木吉弥というのが十五円ほど出しました。
この大木というのは、なかなか「しまつ屋」でし
た。大木は一厘、二厘をやかましくいつて金を
貯めた男ですが、貧乏時代から芸事が好きで
長唄だけは近県にも知られている男でした。
大木は能楽にも、そういう意味で関心があつ
たわけですが、滝崎、佐藤の両氏とはちがつ
て、大木は十五円の株主になるような気持だ
つたのです。こうして残りの二百二十五円は小
久保が出して払下げをうけたがほとんど小久
保の所有品みたいになりました。また小久保
の所有でもあつたわけです。
その後、大木は十五円出した金の権利を
云々するので、相談の結果、縫箔の裳束二
枚を大木にやつて、彼の権利を解消させまし
た。その裳束は立派なもので、今もし残って
いたら余程の金額のものでしよう。
大木吉弥の後妻に八百吉という八百屋の未
亡人が入り、その間に吉次というのが生れ、こ
の間まで、土地や金の世話をしていました。市
内でよく見受けたとき「裳束が残っているか」と
聞くと、吉次は「さっぱり知らぬ」といっていまし
た。私は大木に渡した二枚の縫箔を大木に見
せて貰ったことがあります、一枚は真新しく一
枚は多少使ったもので真新しい方には水色地
に芦と鳥の縫模様という結構な裳束でした。
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし