2016年11月07日

「昔はなし」その117 小久保彦十郎と魚町能

小久保彦十郎と魚町能

 魚町に油屋の屋号で小久保彦十郎という素
封家がありました。能楽に「ぞうけい」がふか
く、まだ吉田藩のあるころは、吉田城にも出入
していました。つまり今の御用商人というわけ
です。吉田藩では能楽を舞う武士は指をおるく
らいのもので、何か能楽の催しでもあるときは
小久保が舞い「はやし方」に藩の家臣が出る
というぐあいでした。
 廃藩になると、藩主は不用品を払下げて東
京へ出ることになりました。その不用品のなか
に能裳束がありました。彦十郎は、この能裳束
がむざむざと分散することは残念だし、今後、
能楽を舞うことができないことになるので値段
によっては自分が譲りうけたいと交渉すると、
それが許され能面から裳束合せて三百円と
いうことになりました。
 当時の三百円は相当な金でした。このなか
には足利時代のものも二、三枚ありました。
また太閣秀吉が狩野三楽に桐と鳳凰とかを
描かせた赤地の長絹に極彩色をしたものも
ありました。これを見て加賀の前田侯が感化
して、ついに欲しくなって円山応挙に命じて
三楽の桐と鳳凰を写させた話は有名です。
この前田侯の長絹は、あとで宝生流の家元
の家宝となって残っています。前田侯によだ
れを垂らさせた三楽の長絹は今日でも魚町
にあります。
 三楽の描いた長絹のほかに唐織が十枚ほ
ど、能面が六十三枚ほどあり、この能面のうち
五十面がすばらしいものです。どこの土地、ど
この場所へ参りましても、能面が何面かあって
も、よいものは、その中で五、六面にすぎませ
ん。魚町のように五十面もいいものが揃ってい
るところは他にありません。魚町のこの傑作品
の能面のうち五、六面は重要美術に指定され
ています。
 金剛流の家元がかつて私に「自分ら玄人でも
豊橋の魚町にあるような立派な面をつけて能
を舞うことは一代にあるか、どうか判らない。そ
の点あなた方は幸せですよ」と言われたことが
あります。私は冷やかされたようでもあり、ほめ
られているようでもありました。



「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より 小久保彦十郎

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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