2016年11月01日

「昔はなし」その111 五味さま御馬

五味さま御馬

 花園町を「ほうろく町」といったころ、今の浅井
家の先々代の弁庵は歌にうたわれて有名でした。
   ほうろく町の弁庵さん、ようるも、ひいるも
   赤いづうきん、かあぶり、どうした
 これは、その頃、弁庵さんが赤い頭巾をかむ
って植ほうそうをしたからです。当時は赤頭巾
をかむって植ほうそうするのが例だったからと
思います。
 また、こんな歌もありました。
   丁子屋あ(ちようじや)のきせるは何処に
   さす、ヘソとチンポのあいにさす
 丁子屋というは今の福谷博士の先代(元治)
のもう一つ先代の藤十郎のことです。この人は
普通より長いキセルを持ち歩いていたんです
が、いっもヘソの下へさしていたので町の人が
こんな歌をうたうようになりました。
 今の五味為吉さん(元陸軍少将)の先々代が
藩の御用で使いに出るときは馬でいくのが例
でした。ある日、御油の方へ御用ででかけると
き、馬が東の方へ向いてしまうのです。五味さ
んという人は、腹の大きい人でしたので「五味
様、今日はどちらへ」と人が聞くと馬に聞いてく
れと言われました。その日五味さんは馬の行く
方へ向ってそのうちに馬が頭を向けなおして、
ようやく自宅まで戻ってきたことがありました。
 だから「今日はどちらへお出かけでございま
すか」というと五味さんは「どちらか判らない馬
に聞いてくれ」という返事なのです。そこで
   五味さん御馬で
という言葉が流行しました。それから、あてもな
く行くことが「五味さま御馬で」という言葉になり
ました。
 またあてにならないこともその意味になり「お
い五味さま御馬じゃ困るよ」というようになりました。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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