2016年10月20日

「昔はなし」その99 豊橋病院と芸者芝居

豊橋病院と芸者芝居

 豊橋病院という名のついた病院ができた話は
古いことです。大手門をくぐった深井邸の隣に
鈴木玄仲という医者がありました。この人は政
治面にも尽した人でした。当時、吉田藩の脇家
老から渥美郡長になった松井譲と相談して病
院を起しました。二人のはかに、もちろん有力
者の協力がありました。
 その病院は関屋の今でいう外堀の通ってい
た賢養院の前あたりだったと思います。さて、
その竣工式には、札木から上伝馬の芸者が女
芝居をやりました。松井譲と鈴木玄仲のやるこ
とで、なかなか大仕掛でした。人気も大したも
ので関係筋から贈られた「のぼり」が悟真寺筋
から本町の角までならんで立ちました。引幕の
数なども大したものでした。
 当時の芸者は名古屋から伊勢の出身が多
く、里から親や親せきが豊橋へどっとやつてき
ました。二日間の芝居が終ると、芸者へ御ひい
き筋から贈ったのぼりや引幕を芸者の親たち
が持って帰りたいというのです。ところが芸者
個人の名前を書いて贈られたものはいいが、
芸者連へとか、何々連へとグループヘ贈ったも
のは分けるわけにいかず困りました。親たちは
何でもほしいと言って、しまいには、引幕などを
引き裂くようなことも起りました。
 だが、のぼりや、引き裂いた幕が大へんな荷
物になってしまつて提げるにも、背負うにも大
かさで欲ばった親達もみすみす残して帰つて
いくようなこともありました。それくらい人気の
あつた芸者芝居でした。
 芸者芝居で賑やかに看板をだした豊橋病院
も、仕事が不馴れか、三、四年で失敗に帰しま
した。
 その後に慈善病院となったのですが、この慈
善病院というのは、十八連隊の軍医だつた松
井順三という人が、八町の曲尺手筋へ借家を
借りて、軍医の余暇に一般の人々のために無
料診断をいたしました。薬だけは処方せんを書
いて町の薬屋で買わせていました。
 松井さんは豊橋病院のあとを慈善病院とした
が、すぐ御作事の方へ慈善病院をつくりまし
た。それから、有為転変があって今日の市民
病院へと次第に移り変ってきました。


「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より鈴木玄仲松井譲

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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