2016年10月18日

「昔はなし」その97 河原座の開場式

河原座の開場式

 河原座をやつていたのは河原善太郎であり
ました。小屋は建てたが開場式はどうしたもの
かと迷っていた善太郎がひょっくりと、私のとこ
ろへきました。「義太夫か講釈でもやって舞台
開きをやってみたらと思っとる」というので「落
語でもやったらどうだね」とすすめました。する
と善太郎が「どうしたらやれるか」というので
「やるなら、今、人気の三遊亭円遊がいい、円
遊はステテコの元祖だ」というと私に頼んでくれ
というのです。私もうつかり口を聞いたため円
遊のところへ手紙を出すとすぐ承知してくれま
した。近く番頭を豊橋へ行かせるという返事で
した。
 それから五、六日のちマントを着た男が表を
行ったり来たりしているので「円遊さんの番頭
ぢやないか」ときくと、やはりそうでした。その
番頭との間に話もまとまり日も決つて、いよい
よ河原座のこけら落しとなりました。円遊のほ
か長唄の松永和風(初代) や三味線の鉄四郎
なども来ました。円遊の息子は当時十九才でし
たが、それもきて舞踊をやりました。
 当時の入場料で二円くらいでしたが、それが
五日間も大人満員では河原善太郎も面喰いま
した。終ってから和風らが私の家へ挨拶にきま
したが、そのおり、円遊の息子が私の家で清元
の北州を踊って見せてくれました。芸者衆も大
ぜい見物しましたが、十九の少年舞踊家の芸
とは思われず、みんな讃嘆しました。この少年
が東京へ戻って若柳流の家元若柳吉蔵となっ
て天下に名をひびかせました。



ウィキペディアより若柳吉蔵

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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