2016年08月30日
「昔はなし」その48 御油の玉寿し二川の橋本屋
御油の玉寿し二川の橋本屋
御油の玉寿司は昔は有名でした。旅に出る
人、奉公に行く者が西へ向うときは御油まで送
っていつて、ここの玉寿司で別れたものです。
豊川のほうしの玉を型どったのかも知れない
が、一種変った卵巻きの寿司でした。シンは
卵の薄焼、上は厚焼きで、ちょうど弓の的の
ような形で老人も女子供も、この玉寿司は喜
んだものです。
玉寿司の主人は、その昔、力士だったそう
で、それが素人になって寿司屋をはじめたの
です。稲石という名だったが、力士時代にそう
いう名だったかも知れません。相撲界にも、芸
界にも名が知れていて、東海道の上り下りの
役者、力士で、この玉寿司で一服しないものは
ないくらいでした。
また、相撲や、芝居がかかると、そこには必
ずといっていいぐらいに、御油の玉寿司と染め
た「のぼり」が立っていました。男気のある人
だったらしい。東へ向う旅人は二川まで送って
橋本屋という宿で別れる習わしで小華先生が
東京へ立つときなども、私らは橋本屋まで送
りました。橋本屋の方は普通の宿で、別に名
物はありませんでした。
御油の玉寿司は昔は有名でした。旅に出る
人、奉公に行く者が西へ向うときは御油まで送
っていつて、ここの玉寿司で別れたものです。
豊川のほうしの玉を型どったのかも知れない
が、一種変った卵巻きの寿司でした。シンは
卵の薄焼、上は厚焼きで、ちょうど弓の的の
ような形で老人も女子供も、この玉寿司は喜
んだものです。
玉寿司の主人は、その昔、力士だったそう
で、それが素人になって寿司屋をはじめたの
です。稲石という名だったが、力士時代にそう
いう名だったかも知れません。相撲界にも、芸
界にも名が知れていて、東海道の上り下りの
役者、力士で、この玉寿司で一服しないものは
ないくらいでした。
また、相撲や、芝居がかかると、そこには必
ずといっていいぐらいに、御油の玉寿司と染め
た「のぼり」が立っていました。男気のある人
だったらしい。東へ向う旅人は二川まで送って
橋本屋という宿で別れる習わしで小華先生が
東京へ立つときなども、私らは橋本屋まで送
りました。橋本屋の方は普通の宿で、別に名
物はありませんでした。
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
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