2016年08月17日
「昔はなし」その35 昔の札木本町
昔の札木本町
昔、いちばん繁華だった町は札木町です。
いまの東海銀行支店の西向角より本町となり、
本町より上伝馬へつづいています。
こちらから(東に立って)いうと北側の角に
菊宗の先祖が田がくを商っていました。その
隣りが三臓円という薬種屋で看板がふるって
いました。その隣りが川越屋という油屋で有
名な茶人の魚典の家でした。その隣が米善
という商人宿で、ここも大茶人の石川米奄の
家でした。米庵は豊橋の茶人というより世間
に名の通った茶人でした。その隣りが美濃屋
という薬種屋で、間口十一間くらいあって、い
いつくりの家でした。吉田神社の祭礼のおり
は、藩主も一度ここへ立寄ることになっていま
した。それは本町から十二人の騎馬武者が出
るので、そういう縁故からだったと思います。
美濃屋の隣が丸八麻屋でした。その隣が有名
な田中屋といううどんやでした。
三河国吉田名蹝綜録より
「夫十二疋の競馬は鎌倉時代の勇士を表し、和田義盛、佐々木盛綱、梶原景時など初としてそれぞれのな名あり、
出立は柿の素袍にかけ烏帽子を冠り、城内天王小路にて十二度の走馬あり」

昔、いちばん繁華だった町は札木町です。
いまの東海銀行支店の西向角より本町となり、
本町より上伝馬へつづいています。
こちらから(東に立って)いうと北側の角に
菊宗の先祖が田がくを商っていました。その
隣りが三臓円という薬種屋で看板がふるって
いました。その隣りが川越屋という油屋で有
名な茶人の魚典の家でした。その隣が米善
という商人宿で、ここも大茶人の石川米奄の
家でした。米庵は豊橋の茶人というより世間
に名の通った茶人でした。その隣りが美濃屋
という薬種屋で、間口十一間くらいあって、い
いつくりの家でした。吉田神社の祭礼のおり
は、藩主も一度ここへ立寄ることになっていま
した。それは本町から十二人の騎馬武者が出
るので、そういう縁故からだったと思います。
美濃屋の隣が丸八麻屋でした。その隣が有名
な田中屋といううどんやでした。
三河国吉田名蹝綜録より
「夫十二疋の競馬は鎌倉時代の勇士を表し、和田義盛、佐々木盛綱、梶原景時など初としてそれぞれのな名あり、
出立は柿の素袍にかけ烏帽子を冠り、城内天王小路にて十二度の走馬あり」

Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし