2016年08月14日
「昔はなし」その32 大手門あたり
大手門あたり
大手門を越して深井脇家老の向うが鈴木玄
仲という医者でした。なかなかの政治家で、医
師以外に政治面に忙しい人でした。田原あたり
の出身と思います。
その隣りが石川久太郎の屋敷で学校の先生
でした。それをいくといまの公会堂あたりになっ
て、他に家は一軒もありませんでした。
昔の士族屋敷は身分に応じて間取なども決っ
ていました。床の間のついた座敷がいくつと
か、石垣の高さ、床の高さも、みな身分に応じ
て決っていました。
門の窓も竹で編むとか、木でやるとか、すべ
て身分に応じてやっていました。豊橋で士族屋
敷の名残りを見せていたのは赤門を南へ行っ
たところにあった柴田伸吉大佐の邸宅だが、今
どうなっていますか、未亡人も健在のはずです
が柴田伸吉は日清役に連隊旗手として出征し
ました。柴田伸吉の親は豊永といってその夫
人は家老和田稲城の娘でした。和田の長男
八千穂は私の学校づれでした。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
鈴木玄仲
大手門を越して深井脇家老の向うが鈴木玄
仲という医者でした。なかなかの政治家で、医
師以外に政治面に忙しい人でした。田原あたり
の出身と思います。
その隣りが石川久太郎の屋敷で学校の先生
でした。それをいくといまの公会堂あたりになっ
て、他に家は一軒もありませんでした。
昔の士族屋敷は身分に応じて間取なども決っ
ていました。床の間のついた座敷がいくつと
か、石垣の高さ、床の高さも、みな身分に応じ
て決っていました。
門の窓も竹で編むとか、木でやるとか、すべ
て身分に応じてやっていました。豊橋で士族屋
敷の名残りを見せていたのは赤門を南へ行っ
たところにあった柴田伸吉大佐の邸宅だが、今
どうなっていますか、未亡人も健在のはずです
が柴田伸吉は日清役に連隊旗手として出征し
ました。柴田伸吉の親は豊永といってその夫
人は家老和田稲城の娘でした。和田の長男
八千穂は私の学校づれでした。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
鈴木玄仲
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし