2016年08月11日

「昔はなし」その29 小使いが先生に命令

小使いが先生に命令

話は八町学校時代に戻りますが、ずいぶんと
やかましい教育でした。一学級三十五人位で
したが、試験ごとに一位から三位は高僑貞磧、
竹本巴それに私の三人で占めていました。
 高橋は後で甲府の病院長になりましたが読
方の方で優れ竹本は後に午久保の細井医院
の養子になったが図画が傑出していました。
私は習字の方でした。
 高橋は成人してから中村道太の弟の平山甚
太の娘を妻君にもらいました。平山はやはり旧
士族ですが日本の花火をはじめてアメリカヘ
輸出した男です。東京にずっといましたが老後
は豊橋へ戻って暮らしました。
 旧士族で名前は失念したが吉田藩でお茶坊
主をしていたのが、あとで野沢組の社長になっ
たり、浄円寺の檀家だった鈴木駅次などは大
阪で鉱山をやって成功しました。駅次の親達は
長く豊橋に住んでいたのを覚えています。
 廃藩とともに旧士族の多くは教員になった
が、武士時代高録をはんだ者が、下級武士の
下に立つようなことにもなったりしました。その
ため、なかには武士時代には大威張りだった
人が、職もなくて、ようやく学校の小使さんに
なったりした例もあります。 
 だから学校では教員と小使の区別はあって
も、小使になった本人は一向、小使になった
気持になれないのです。小使がとことこ教室
へやってきて「若原」などと大声で先生を呼ん
で「若原いるか、貴様の弁当が届いたが、井
戸端においとくからとりに来い」なんて調子で
す。すると先生が、「はい、すぐいただきに参り
ます」
 当時のことは、あとで時習館中学の先生に
なられた岩上さんがよく知っておられたが、八
町学校にも当然、当時の記録は残っていた筈
と思います。私は八町を卒業すると、また漢学
の勉強に通いました。大田成之が都合で他へ
移るまでそこで学び、それから児島閑窓の門
に入りました。
 私らがその昔は時習館であった八町学校へ
通うころ、時習館内に三人くらいで手をつない
でかこむ松の木が二、三本ありました。その松
の木の下は洞穴になっていて、私らは気味悪
がったものです。


ウィキペディアより
平山甚太

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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