2016年08月08日

「昔はなし」その26 豊橋最初の小学校

豊橋最初の小学校

 学校令が出て昔の藩の時習館の場所に八町
学校が生れたとき、悟真寺の寺子屋に通って
いた私たちは、その八町学校へ入学することに
なりました。
 その当時は六才でも、七才でも、八才でも入
学は自由で、今のように年齢に達したから自動
的に入学するのとは違いました。一年生は下
等八級と申していました。
 その頃の同級の中には大口喜六、のちに助
役などをした山本松次、遠藤安太郎などがい
ましたが同級としては生きているのは、私一人
となりました。
 校長は尾藤徳義で、この人の親爺は旧士族
で剣道家として有名でした。 一年生―― つま
り下等八級といえど、教科書は十八史略、日本
外史、福沢翁の民間経済録などというむつか
しいものが用いられ、このほかに論語、孟子な
ど加えられているのですから、六つ七つの少
年たちにとっては大へんな教科書です。漢学
は児島閑窓が教えていました。下等八級から
一級まであつて年に二度の試験で進級し、
それが終ると、今まで教つたことを復習する
科目が終わり上等八級になり、それから一
級まで進むわけです。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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