2016年08月06日
「昔はなし」その24 大崎屋のこのわた
大崎屋のこのわた
豊橋の漢学者児島閉窓と同窓だった関係で文字
博士滋野安駅が豊橋へやってきたことがあります。
私は同窓の紹介で滋野博士に「千歳楼」の文字を
依頼しますと、「僊桃楼」と書いてあるのです。
「こりゃ先生、千歳楼ぢゃございません」と言うと
先生は「それでよいのぢゃ、僊桃は、即千歳に通
じるのだ、それ以外の字は書けない」ときっばり言
われましたのには、へいこうしたことがあります。
東方朔の「三千年の桃」から引用されたのでしょう。
そのとき書生としてついてきたのが後年の大学者
三上参次でまだ二十才頃でしたでしよう。
そこへ行くと小華先生などは俗をよく解していて
大崎屋の主人公が「このわた」の看板を頼みに行く
と、よしきたとばかり「此わた」とあっさり書いて渡さ
れました。これなら誰でも読めるし、しかも小華のく
だけた筆法で、大崎屋の看板はなかなか好評だっ
たたようです。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
児島閉窓
豊橋の漢学者児島閉窓と同窓だった関係で文字
博士滋野安駅が豊橋へやってきたことがあります。
私は同窓の紹介で滋野博士に「千歳楼」の文字を
依頼しますと、「僊桃楼」と書いてあるのです。
「こりゃ先生、千歳楼ぢゃございません」と言うと
先生は「それでよいのぢゃ、僊桃は、即千歳に通
じるのだ、それ以外の字は書けない」ときっばり言
われましたのには、へいこうしたことがあります。
東方朔の「三千年の桃」から引用されたのでしょう。
そのとき書生としてついてきたのが後年の大学者
三上参次でまだ二十才頃でしたでしよう。
そこへ行くと小華先生などは俗をよく解していて
大崎屋の主人公が「このわた」の看板を頼みに行く
と、よしきたとばかり「此わた」とあっさり書いて渡さ
れました。これなら誰でも読めるし、しかも小華のく
だけた筆法で、大崎屋の看板はなかなか好評だっ
たたようです。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
児島閉窓
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
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