2016年08月03日

「昔はなし」その21 漢家二代太田家

漢家二代太田家

 旧士族の関根痴堂は漢学者としても、書家と
しても一流でした。中村道太の縁で東京へ早く
出ましたが、明治十三年ごろ、家老の松井譲と
私の家へ来たことがあります。
 同時代の大田錦城も漢学者として名の高い
方でした。息子の成之も漢学者で、私は成之
に教えをうけました。成之の家は旧練兵場の
入口にありました。「文選傍訓」などというもの
を習いました、
 成之は貧乏で着替の着物もなく、羽織など
も持ちませんでした。粗衣粗食の生活で、タン
ポポやツクシをとってきては食していました。
せいぜい豆腐、油揚が彼の生涯の美食の一
つでしたでしょう。
 漢学の本を読むことは、草ぞうしを読むがご
とくで、頁の一枚をめくらぬうち、早くも次の頁
の半分ほどは読んでいるというような学者でし
た。
 講義をするときは、貧も俗もいっさい忘れて、
講義 のなかに自分を躍動させ、まるで成之自
身が天上の世界にあるごとく、その楽しそうな
ヒトミの輝き、嬉しそうな手ぶりは今も眼前に浮
んで参ります。


「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
太田錦城・晴軒

同じカテゴリー(豊橋の昔はなし)の記事画像
「昔はなし」その177 豊川鉄道の開通式
「昔はなし」その163 安藤の豚会社
「昔はなし」その151 三千円で失つた機関庫
「昔はなし」その143 仙十さんの太閤ぶり
「昔はなし」その135 悟真寺の池
「昔はなし」その112 浮世絵と川せり
同じカテゴリー(豊橋の昔はなし)の記事
 「昔はなし」その312 あとがき (2017-05-26 06:00)
 「昔はなし」その311 札木の八日講の御膳所 (2017-05-25 06:00)
 「昔はなし」その310 服部長七の鋭い頭 (2017-05-24 06:00)
 「昔はなし」その309 豊沢団平の三味線 (2017-05-23 06:00)
 「昔はなし」その308 浅吉、高利以上だと嘆く (2017-05-22 06:00)
 「昔はなし」その307 皇太子の料理人の苦労 (2017-05-21 06:00)
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。