2016年08月02日
「昔はなし」その20 豊橋の書家
豊橋の書家
豊橋の筆製造も小華先生の頃は大して盛ん
ではなかったと思います。
曲尺手に土屋という筆屋があって小華先生
はよくそこへ買いに行かれました。それは豊橋
製の筆ではなかったが、しまいには小華用筆
なんて名のついた筆がならべられていたので
先生は苦笑されていました。小華先生はそこ
で墨も買いましたが、墨は唐墨で「気叶金蘭」
という銘がはいっていたと覚えています。
筆のことになりましたが、当時、井村常山と
郡役所にいた松原、本町の長尾華陽など代表
的書家でした。書風は変ってたが花園町正林
寺の柏樹恵鮮もいい書でした。ほかに羽田野
栄樹なども有名でした。鈴木梅巖なども記して
おくべきでしょう。
巖谷小波の父の一六居士は豊橋へ来たと
きは桝屋へ泊りました。大衆うけは日下部鳴
鶴の方だったかも知れませんが、若松園と書
いてもらったとき、二十五円の書料をとられま
した。当時の二十五円は高額でした。
これを木に彫って若松園の看板にしていまし
たが、戦災で焼きました。
一六居士は謡曲、義太夫をやり、疲れると
一室で、そういうものを口ずさんでいましたが、
字を書くときは立ったまま書くのが常でした。
豊橋の筆製造も小華先生の頃は大して盛ん
ではなかったと思います。
曲尺手に土屋という筆屋があって小華先生
はよくそこへ買いに行かれました。それは豊橋
製の筆ではなかったが、しまいには小華用筆
なんて名のついた筆がならべられていたので
先生は苦笑されていました。小華先生はそこ
で墨も買いましたが、墨は唐墨で「気叶金蘭」
という銘がはいっていたと覚えています。
筆のことになりましたが、当時、井村常山と
郡役所にいた松原、本町の長尾華陽など代表
的書家でした。書風は変ってたが花園町正林
寺の柏樹恵鮮もいい書でした。ほかに羽田野
栄樹なども有名でした。鈴木梅巖なども記して
おくべきでしょう。
巖谷小波の父の一六居士は豊橋へ来たと
きは桝屋へ泊りました。大衆うけは日下部鳴
鶴の方だったかも知れませんが、若松園と書
いてもらったとき、二十五円の書料をとられま
した。当時の二十五円は高額でした。
これを木に彫って若松園の看板にしていまし
たが、戦災で焼きました。
一六居士は謡曲、義太夫をやり、疲れると
一室で、そういうものを口ずさんでいましたが、
字を書くときは立ったまま書くのが常でした。
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
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