2016年07月25日
「昔はなし」その12 中村道太と芸者清松
中村道太と芸者清松
百花園には中村道太の息子の倉次が呉服
屋をしていましたが、中村道太は豊橋を代表す
る日本的の実業家になった人です。
中村道太は歌もつくり、茶道もやりました。
第八銀行というのを百花園の入口につくった
ころから金融面に才能を発揮しました。だが
当時は、まだ金を銀行に預金するよりは仏檀
にしまっておく方が安全だと考えられていた世
の中でしたから、銀行商売もうまく行きませな
んだ。士族の商法で問もなく解散となり、つづ
いて名古屋百三十四銀行の支店が出来まし
た。これが愛知銀行のはじまりです。はじめの
支店長は繁野清彦と云う人でした。
中村道太は横浜で正金銀行をつくったり、
東京で米穀取引所の理事長にもなって一世
の実業家となりました。身分の低い田舎藩士
から、このように成功した人の例は少ないで
しょう。
福沢翁が慶応をつくったとき、ぼんと一万円、
当時の金を投げ出した中村道太は剛腹な人と
いうべきでしょう。
関係すじを招待するに便利だからと東京で自
分が料理屋まで経営していました。料理人に
は豊橋から織清の主人をつれていったりしまし
た。その頃まで豊橋には女郎ばかりで芸者と
いうものがなくようやく、ただ一人の芸者が誕
生しました。この芸者一号は清松と言い、若く
美しく教養もあったので、中村道太はこれを東
京へ連れていって料理屋の支配人にしました。
料理屋は鷗雨荘とか申したようです。
清松と中村道太とはべつに個人的関係は何
もありませんでした。大口喜六さんが「清松と
いうのは僕の親せきの娘だよ」と言っておられ
ました。清松が芸百般に通じて、文字通りの
芸者だったのも、大口さんの話でなるほど
相当の家庭の娘だったからだとわかりました。
それから三年くらいして、芸者というものが、
豊橋にも生れました。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より。
中村道太
百花園には中村道太の息子の倉次が呉服
屋をしていましたが、中村道太は豊橋を代表す
る日本的の実業家になった人です。
中村道太は歌もつくり、茶道もやりました。
第八銀行というのを百花園の入口につくった
ころから金融面に才能を発揮しました。だが
当時は、まだ金を銀行に預金するよりは仏檀
にしまっておく方が安全だと考えられていた世
の中でしたから、銀行商売もうまく行きませな
んだ。士族の商法で問もなく解散となり、つづ
いて名古屋百三十四銀行の支店が出来まし
た。これが愛知銀行のはじまりです。はじめの
支店長は繁野清彦と云う人でした。
中村道太は横浜で正金銀行をつくったり、
東京で米穀取引所の理事長にもなって一世
の実業家となりました。身分の低い田舎藩士
から、このように成功した人の例は少ないで
しょう。
福沢翁が慶応をつくったとき、ぼんと一万円、
当時の金を投げ出した中村道太は剛腹な人と
いうべきでしょう。
関係すじを招待するに便利だからと東京で自
分が料理屋まで経営していました。料理人に
は豊橋から織清の主人をつれていったりしまし
た。その頃まで豊橋には女郎ばかりで芸者と
いうものがなくようやく、ただ一人の芸者が誕
生しました。この芸者一号は清松と言い、若く
美しく教養もあったので、中村道太はこれを東
京へ連れていって料理屋の支配人にしました。
料理屋は鷗雨荘とか申したようです。
清松と中村道太とはべつに個人的関係は何
もありませんでした。大口喜六さんが「清松と
いうのは僕の親せきの娘だよ」と言っておられ
ました。清松が芸百般に通じて、文字通りの
芸者だったのも、大口さんの話でなるほど
相当の家庭の娘だったからだとわかりました。
それから三年くらいして、芸者というものが、
豊橋にも生れました。
「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より。
中村道太
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
│豊橋の昔はなし