2016年07月24日

「昔はなし」その11 蓬宇という人

蓬宇という人

 百花園にいた佐野蓬宇という俳人は本町の
よろずやという「まんじゆう屋」の主人でした。
息子に代をゆずり俳句生活にはいったので
す。近世の豊橋を代表する俳人で九十五才
くらいまで長命しました。
 明治十五、六年のころ、私たちが悟真寺に
碑を建てましたが、多分、あの碑のうしろには
     梅にのこり柳にへりし寒さかな
という句が刻んであったと思います。蓬宇の
名が全国的になったのは勅題、厳上の亀
     おのづから蓬莱なれや厳に亀
という句からです。蓬宇の名が天下に知られる
と東京で有名だった其角堂永機が主宰して、
弟子とともに蓬宇老人を東京へ招くことにな
りました。
 永機らが駅で迎えていると、いっこう蓬宇
らしい人が降りて来ないのです。こりゃ汽車
の時間がちがったのかと思って、ふと向う
を見ると一人の田舎くさい老人がしょぼんと
立っているのです。ふつうのエリサシのハ
ンテンに茶の頭巾という、ありふれた風さい
なんです。「もしや、あなたは蓬宇先生ぢゃ
ないか」と聞くとそうだと答えたので判った
そうです。
 そのときの永機の方のいでたちはドンス
のヒフに上をとめるポタンは金だったとか言
う話です。蓬宇は東京に半歳も滞在しました。
毎月、当時の金で六百円くらいづつ息子の
所へ送ってきたが、息子は道楽に使ってし
まったようです。
 蓬宇が豊橋へもどってきたのは夏の頃で、
今でいう弟子たちの歓迎会が玉屋で行われ
ました。その時の句が
    涼しさやもたれなじみの掾はしら
というのです。蓬宇の子孫は絶えてしまいま
した。その後、百花園をつくった中西も家を売
るようになり、百花園も消えて豊橋の一角に
開いた明治文化は、はかない夢と散じた感が
します。




「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より。
佐野蓬宇

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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