2016年07月22日

「昔はなし」その9 百花園の人々

百花園の人々

小華先生のおられた関屋の百華園は、楽隠居
とか、文人、墨客が集って、豊橋の人々は極楽
町とも呼んでいました。
 どんな連中がいたかというと、右側には中村
道太の息子の中村倉次が呉服屋をやり、その
隣りが佐野蓬宇宗匠、その隣りが書の井村常
山、左側は角に桝屋旅館の未亡人が楽隠居、
その隣りが茶人の石川米庵、その隣りが村雨
案山子でした。米庵は宗偏流の茶人で有名
でした。
 米庵の家は真四角で左が入口、つまり玄関
が寄付(よりつき)で奥が茶席でありました。
右手が自分の書斎で、その奥が水やで、風流
この上もない造りでした。
 書家の井村常山は後期は絵筆もにぎりまし
た。だから日本漫遊の支那人が多く訪れたも
ので、胡公寿、王琴仙、王治本などという支那
一流の絵描きが訪れたものです。
 村雨の妻君は、たいへんな美人でした。
今でいう線香花火――昔でいう「かんぜより」
花火をつくるのに妙を得ていました。花が沢山
で大きく開くので花火屋が頼みにきますが売ろ
うとしませんでした。
 村雨は自由党の党員で選挙になると忙しく
なって、大きなステッキをついて応援に出かけ
ると相手の党の用心棒がさっと逃げ出すほど
の男でした。


ウィキペディアより
中村道太

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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