2016年07月20日

「昔はなし」その7 織清主人と小華

織清主人と小華

 小華先生の生活はなかなか豊かでした。
関屋から東京へ出られたのが明治十五、六
年頃だったかと思います。今で言うなら大観
とか栖鳳とかいう立場の滝和亭というのが、
当時の東京ではえらい人気でした。小華先
生は東京でその人と張り合うことになってし
まったのです。
 小華先生は、なにも滝和亭と張り合うつも
りで東京へ出たわけではなかったが、結果は
そうなってしまったんです。東京へ出てから
描かれたものは、なかなか逸品が多く豊橋
で描いたもの以上の製作がうんとあります。
 小華先生が豊橋にいた頃は夕方まで絵
を描き、それから散歩に出られた。晩翠、清
華、清江、華陽などの門下の画家をつれて、
札木のうなぎや「織清」(おりせい)に足を運
ばれたものです。
 織清のうなぎが美味だというので小華先
生は「すこぶるべっびん」と名づけていた位
です。別に毎日、うなぎを食べに行ってたわ
けではないですが、織清の主人がなかなか
のお茶人で、そこで茶をのみながら語るの
が一興だったわけです。先生は織清の主人
と話しながら半切に「あそこの庭の梅がこん
なだった」とか「あの屋敷の石がこんなぐあ
いだった」と絵を猫きながら話されたんです
が、あの即興画が残っていたら面白かろう
と想像します。


文中の織清とは今の札木の「丸よ」です。
「丸ようなぎ」より「べっぴん」の由来

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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