2016年07月19日
「昔はなし」その6 小華先生とすま子夫人
小華先生とすま子夫人
小華先生は無口でしたが、まっすぐな人でし
た。私は関屋のお宅へ毎日、墨をすりに出か
けました。いつも先生から「墨はまるく廻してす
れ、力をいれるな、力をぬくな、その中間の力
ですれ」と言われたものです。画せん紙百枚の
ために十六ぱい墨をすったことを記憶しています。
小華先生は、たまには着色のものも描かれ
たが多くは水墨の南画風のものでした。あのく
らい筆の達者な人を私は知りません。多数が
眺めている前で、人が前にいることも無関心で
さらっと描きあげるんです。
毎日々々先生の絵が、いつか私の頭から離
れないのです。ちょっとした点、ほんの細い線
にしても、先生のものはすぐわかるようになっ
てしまいました。
だから、小華先生の作品についての鑑定だけ
は自慢ぢゃないが、私は誰よりも自信をもって
いるんです。
小華先生の奥さんは椿山の娘で、すま子
と申しました。学問では小華先生もすま子夫
人には頭が上らない格好で、すま子夫人は
名筆で容才兼備の賢夫人でした。和歌も能
くせられました。小華先生が紺屋町におられ
た頃の画紙は白紙と云い関屋河岸へ移られ
た頃から小画箋、中画箋、大画箋、ぬり絹、
絵絹など追々と出て参りました、最初はみな
支那よりきたものです。
ウィキペディアより
椿椿山
小華先生は無口でしたが、まっすぐな人でし
た。私は関屋のお宅へ毎日、墨をすりに出か
けました。いつも先生から「墨はまるく廻してす
れ、力をいれるな、力をぬくな、その中間の力
ですれ」と言われたものです。画せん紙百枚の
ために十六ぱい墨をすったことを記憶しています。
小華先生は、たまには着色のものも描かれ
たが多くは水墨の南画風のものでした。あのく
らい筆の達者な人を私は知りません。多数が
眺めている前で、人が前にいることも無関心で
さらっと描きあげるんです。
毎日々々先生の絵が、いつか私の頭から離
れないのです。ちょっとした点、ほんの細い線
にしても、先生のものはすぐわかるようになっ
てしまいました。
だから、小華先生の作品についての鑑定だけ
は自慢ぢゃないが、私は誰よりも自信をもって
いるんです。
小華先生の奥さんは椿山の娘で、すま子
と申しました。学問では小華先生もすま子夫
人には頭が上らない格好で、すま子夫人は
名筆で容才兼備の賢夫人でした。和歌も能
くせられました。小華先生が紺屋町におられ
た頃の画紙は白紙と云い関屋河岸へ移られ
た頃から小画箋、中画箋、大画箋、ぬり絹、
絵絹など追々と出て参りました、最初はみな
支那よりきたものです。
ウィキペディアより
椿椿山
Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)
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