2016年07月18日

「昔はなし」その5 小華先生が豊橋ヘ

小華先生が豊橋ヘ

私が八才の頃です。私は呉服町東の突き当り
にいた坂輪竜庵という漢法医のところへ漢学、
宗偏流の茶道を習いに参りました。その家の
あとへ東雲座が建ちました。今は道路になっ
て何の面影も止めませんが、今あの屋敷が残
っていたら、雅味のある邸宅として参考となっ
たろうと思います。
 竜庵は京都の人で、実子を失い、養子をもら
つたが、全く絶えてしまったようです。私はそこ
で大学とか中庸とかを教わりました。
 渡辺小華先生が田原から出てこられ、紺屋
町に住んだのもその頃です。当時、原田圭岳
という画家が東京から来て吉屋町に居を定め
ました。圭岳というのは東京では是心と肩をな
らべた大家で、是心とともに「うるし絵」を描き
だした最初の人でもありました。
豊橋に来たころの人気は大したものでした。
そのために小華先生の名は、まだ圭岳の前に
は淡くてとても人気では大刀打はできません
でした。小華先生はあとで関屋の河岸際へ移
られ、知名の人も出はいりするようになり、小
華先生の名は次第に高まってきました。
 関屋町河岸には中西健三が造った花畑の
名を小華先生が百花園と命名されその通路に
あたる細い道をも自然に百花園と呼ぶようにな
り、この通路に居を構えた人々は、渡辺小華、
石川米庵、佐野蓬宇、中村倉次、井村常山、
杉田兼次郎、村雨案山子などでした。後に此
の通りを人は極楽町と云いました。


「郷土豊橋を築いた先覚者たち」より
渡辺小華

松原洋一・UAG美術家研究所より「東三河における小華門」

豊橋市美術博物館
原田圭岳

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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