2016年07月16日

「昔はなし」その3 電信技士ハルベキス

電信技士ハルベキス

父は養子、母は髪結い、祖母は店売という
一家でしたが明治七、八年に電信が豊橋
へも架設されるというころ、父はその工夫に
なりました。豊橋から二川まで工事が始つ
たのです。その監督指導に豊橋ヘやってき
た技師が英国人でハルベキスという人でし
た。
このハルベキスの通訳であった人は三方(み
かた)さんといつて、まだ二十才そこそこの書
生さんでした。この人が、あとでオランダの公
使などに出世して、私のもとへよく手紙を下さ
いました。
 困ったのはハルベキスの下宿で、当時は外
国人はケダモノみたいに嫌つて誰も歓迎して
くれない、ハルベキスが困っていると福谷博士
の先々代が私の家を貸してやれというのです。
家の者も困ったらしいですが「世間が何とかい
つたら俺が引きうける」という福谷藤十郎さん
の言葉に六畳一間をハルベキスのために提
供したわけです。西洋人に家を貸したといっ
て世間は騒いだそうです。
 ところがその部屋代が、 一月三十円とい
う、当時とすれば大へんな高額だったそうで、
私の家はそのために、ぼつぼつ料理屋の真
似ができるようになったのです。
 私はまだ六つの頃で、ハルベキスが汽車
の玩具を、わざわざ本国からとりよせてくれた
んですが、それが家中でどういうものかわか
らない、ずっと後で汽車というものだとわかっ
たような事でした。
 ハルベキスは国へ帰るとき八町の神明社
へ石灯籠を寄贈しました。いまもちやんと残
つていますが、名前ははいつていませんが、
豊橋の電話の親である氏の記念として、何
とか名を入れて、永久に保存したいものだと
思っています。

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Posted by ひimagine at 06:00│Comments(0)豊橋の昔はなし
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